初めてのシルクロード
日本文化の源流にふれて 内海こういち
今回の旅行では、友達から「鳥インフルエンザ」や「反日デモ」の危険から「忠告」の言葉を頂いたが、13億人の国、日本の25倍もある国土の中で鳥インフルエンザの被害やデモに参加した人はごく少数だし、中国の旅行社もほとんど民間で200社以上もあるというから、「商売」優先でやるものと思い実際そうだったのである。
旅行社はJTB,メンバーは10名、添乗員は中国人の沈さん、名古屋大学の大学院を卒業した人で、ツアー仲間の話では日本の近代文学に相当詳しいとのこと。
ウルムチ・トルフアンの2日間のガイドは現地旅行社の馬さん、30代の女性で日本語は普通の日本人ぐらい上手、日本には行ってないと言うから驚きである。
嘉峪関・敦煌の2日間は張さん、30代後半の女性だ、馬さん程ではないが現地の大学で日本語を学んだと言っていた。
西安のガイドは撲さん、36才の男性で関西で学び働いたことがあるらしい、もちろん日本語はぺらぺら、衣服はユニクロ専門で妻と2歳の子供がいるとのこと。それぞれ各地
の旅行社に雇用されて働いている、最近日本からのお客さんが少ないとこぼしていた。
観光した主な都市や史跡遺跡の概略を先に記述します。
ウルムチ
中国の自治区としては最大の面積を持つ新疆ウイグル自治区の首府(県庁所在地)で経済文化の中心、漢族、ウイグル族、カザフ族、モンゴル族、回族など42の民族が暮らしている。自治区の人口は2081万人、面積は約166万k㎡、気温差は激しく1日で20度ぐらい変わる冬は-20℃、降水量は極端に少なく乾燥地帯であるが天山山脈などの万年雪の雪解け水のおかげで水不足とは縁がない。この地域は紀元前の前漢の時代に西域都護符(平安時代の国司のような)が設置され中国王朝の支配を受けてきたが、王朝の支配が弱まる度に遊牧民族が勃興するという歴史が繰り返された。
ウルムチの語源は紀元前にこの地方を支配していたイラン系民族の言葉との説もある。清朝政府は満州八旗兵を駐屯させ支配してきた、またロシア帝国の脅威に対抗する軍事拠点として重要視、清朝後は内乱の時期の停滞後、中華人民共和国建国後西域地区の開発拠点として飛躍的発展を遂げた。
今では高層ビルが建ち並ぶ近代的都市であり、繁華街は新宿、渋谷などと同じぐらい賑やかである。街中にはカラフルなスカーフをした碧眼の女性たちが闊歩しているし羊肉、ブドウ、スイカ、瓜、香辛料などの店や露店がところ狭しと並んでいる、活気に満ちた町だ、若い人や子供たちも多く見かける。
有名な中国の一人っ子政策は漢族だけで、漢族以外の民族には適用されていないことはあまり知られてない。
楼蘭美女
ウルルムチ市内には新疆ウイグル自治区博物館と紅山公園ぐらいである。博物館にはこの地域に住む12の民族の歴史や民族衣装、文化遺産などが展示されている。
この博物館の見所は、有名なミイラ「楼蘭美女」である。砂漠化する前に古代栄えていた王国があって人々はヨーロッパ人種系であった。ミイラの顔立ちが何よりも証明している。このミイラを見学しただけでも、観光目的の半分が終了した感じである。
紅山公園はとにかく「だだっ広い公園」で市民の憩いの場所になっている、またアヘンの輸入に反対して闘った清朝の高級官僚「林則徐」の立像が立っている。現在の中国は官僚の汚職が蔓延しているとの報道がある、林則徐を見習ってほしいものである。
トルフアン
ウルムチのホテル発東へ約2時間30分180kmのところにトルファン市がある。この地は盆地で北に天山山脈、乾燥地帯だが綿花、ブドウ、瓜など豊富な農産物がある。
トルフアンは前漢の時代に、車師国があり王城を江河城といい、城の下に河流れていたという、この地を北方民族の柔然、高車、突厥などと漢、唐、モンゴル帝国と争奪の繰り返しを経て、清朝時代の大きな戦乱のあと、清朝が勝利し現代に至っている。
この頃、イギリスのスタインや日本の大谷探検隊により、貴重な出土品が海外に持ち去られたという。
高昌故城
トルファン市街地から約40kmのところに高昌故城がある。麹氏高昌国から高昌ウイグル帝国にかけて約1000年間帝国の首都が置かれ、また王の居城だった城である。城址は外城、内城、宮城がそれぞれあるが一見しただけではわからない、荒涼とした砂漠の風景の中に、石と土で出来た城壁と城らしき大きな建物が残っている。
インドに向かった玄奘三蔵が当時の王麹文泰から厚遇された記録がある。玄奘三蔵がインドから帰る頃には唐によって滅ぼされた。城址へはロバ車で向かったが暑さと砂埃で大変だった。
ベゼクリク千仏洞
高昌故城から22kmのところにベゼクリク千仏洞という仏教石窟がある。ウイグル語で「装飾された家」という意味だ、ウイグル帝国時代の貴重な文化遺跡だったがヨーロッパの探検隊によって持ち去られたため、残っているのはごく一部だという、それも修復中とのことで石窟を外観から眺めただけである。
火焔山
トルファン盆地の中央には東西約100km南北10km海抜500mの火焔山がある。西遊記で活躍する孫悟空の話がある。「燃えさかる火焔山が、玄奘三蔵一行を遮るが孫悟空がその火を消す芭蕉扇を手にいれるため鉄扇公主と戦う」のである。
蘇公塔
トルファンにはイスラム教の古いモスクがあり、蘇公塔という1779年当時の王スレイマンが父親のために建設したと言われている。幾何学模様のイスラム建築様式が美しいそうだが、この日は見学出来なかった。
アスターナ古墳群
トルファン市街から36kmほど離れたところにアスターナ古墳群がある。唐代住民の墓地群で、絹製品、陶器、文書類やミイラ、壁画が出土している。壁画などは痛みが進んでいてよくわからなかった。
カレーズ
トルファンには天山の雪解け水が地下水路を経て、カレーズと呼ばれるオアシスを形成している。この水を利用して豊富な農産物を生産している。イランではカナートと呼ばれている、ペルシャ語で地下水を意味するそうなので語源かも知れない。
敦煌
砂漠に囲まれた都市で内外の観光客が多い中国の代表的観光地である。最近、空港が出来たというが、我々はトルファンから夜行汽車で690km8時間30分かけて柳園駅に着き、そこからバスで123km、砂漠の中を約3時間後やっと敦煌についた。
オアシス都市で漢の武帝時代紀元前111年に西域支配の拠点として兵站を設置したのが始まりである。漢王朝の弱体化の度に吐蕃(チベット)西夏(遊牧)と興亡を繰り返したという。しかし敦煌は支配者の変化にもかかわらずシルクロードの交差点であり続けたのである。
莫高窟
中国3大石窟のひとつ「莫高窟」と呼ばれる石窟だが紀元366年に楽尊という僧によって造営が始まったとされ、石窟の数は734窟といわれている。修復中のものもあり見学者に解放されているのはごく少数の石窟で、写真も禁止されている。掲載の写真はネットから引用した。
仏教には無知も同然だが断崖絶壁の下から中腹まで4階建ての石窟を堀り、釈迦、大日如来、普賢菩薩などの像、無数の壁画など見るものを圧倒する迫力がある。
ウルムチ、トルファンよりはるかに観光客が多く欧米人も相当来ていた。
鳴沙山・月牙泉
敦煌の南約50kmのところに広大な砂漠の峰がある、鳴沙山といいラクダに乗って歩くとシルクロードの体験ができる。
時々強風が吹き砂が飛んでくるので良い体験が出来たと思う。ここの砂は赤、黄、緑、白、黒の5色で太陽の角度、天候で様々に変化する。夕方がいいそうだが、少し早かったようだ。ラクダの乗り心地はまあまあだったが10分で充分だった。数百日も旅する隊商の苦労を思いやった。
月牙泉は鳴沙山の谷あいに湧く三日月形の泉で200m幅50m、漢代から遊覧池として知られていたらしいが、枯れたことがないそうだ、楼閣が復元されており登れるが、もう疲労感が勝り眺めただけであった。
嘉峪関
敦煌から300km約5時間、万里の長城西端の当時の関所だった嘉峪関に着いた。「関所」とも言われる建物は、高さ11mの城壁の中に、内城、羅城、外城、城壕とあり内城には光化門、柔遠門が東西にある広大な要塞だった。門の上には17mの3層の楼閣がある。嘉峪関の「関所」は明代の1372年に建設されたものだが重厚感ある建造物であった。
様々な王朝の興亡の間も、長城は約3000年間築造されてきた、そして砂漠の中に巨額の「経費」をかけて城のような関所もつくる「感覚」はよくわからないが、民族の興亡の歴史がほとんどない日本人にはわからないかも知れない。
懸壁長城
嘉峪関の西北8kmのところにがある、峻険な山を駆け上がるように造られた長城である。1987年に補修整備された。45度の傾斜角のところもあったが、ツアーコースに含まれていたので用心して登った。
万里の長城の終点
嘉峪関から南に延びる長城は北大河の絶壁で途絶える。ここが長城の終点でもあると同時に始点でもある「万里長城第一墩」墩とは物見台のことで、長城最西端の下は眼前の黄土高原を切り裂くように深い渓谷が走り、観光用につり橋で渡ることが出来る、渡ってみたが風が強くつり橋が揺れて怖かった。
長城とはいえ幅2~3m高さ2mぐらいで騎馬軍団の越境阻止には高さが不足のように思えた。しかし延々と黄土高原を隔てるように続いていた。この長城の西北側が北方遊牧民族の領土であり、こちら側が漢帝国だったのである。
魏晋壁画墓
嘉峪関市の北東約20kmのところに魏晋時代の墳墓群がある、魏は紀元220年頃三国志で有名な曹操が魏帝国を立て武皇帝を名乗った頃であり、墳墓は壁画墓が多い、被葬者は貴族か裕福な人物らしいが、ブタのと殺から調理の場面、人々が豚肉を食べる場面、狩猟の様子などが、生きいきと描かれていたが写真は禁止だった。
西安
シルクロードの出発点、悠久の古都が西安である。昔長安と呼ばれた西安には、紀元前11世紀から紀元10世紀初頭まで約2000年間、漢、唐など13の王朝の首都が置かれ、秦の始皇帝、漢の武帝、唐の太宗、玄宗と楊貴妃、則天武后など歴史上のヒーロー、ヒロイン、多くの物語ができる舞台でもあったのだ。
前述のシルクロードの起点として漢の外交使節団から、天竺(インド)まで仏教の経典を求める旅に出た玄奘(三蔵法師)もここから出発しここに戻って来たのだ。
中国の絹、お茶、陶磁器が中央アジアを経てヨーロッパに運ばれたのである。
西安は10年前に兵馬俑見学のツアーで来たことがあるので今回2度目であるが、前回より観光客が多いように思う、中国人の団体客が非常に多くなったようである。
日本史で勉強したように隋唐時代に、遣隋使遣唐使が派遣され、阿倍仲麻呂記念碑や空海記念碑もある。古代以来今日まで日本の律令制、漢字文化など大きな影響をもたらした都市が西安である。現在6路線の地下鉄が工事中だ、秦の始皇帝が知ったらビックリするような近代都市に生まれ変わろうとしている。
青龍寺
西安には隋代に建立され唐代に青龍寺と改名された、真言宗開祖の空海が留学し恵果和尚に弟子入りし、密教の教義を学び帰国後高野山に金剛峰寺を建立し真言宗を開いたのである。空海は中国文字(漢字)の簡略化に努力し「ひらがな」発明への道を開いたとも言われている。また中国の灌漑技術を学び帰国後日本の各地でこれを伝えたという。
空海祈念碑、空海祈念堂には空海像が建立されている。日本から3000本の桜の木が送られ境内に植えられている。毎年真言宗の関係者が多数訪れているそうである。
以前高野山を観光した時に、「空海が書の達人であり、短期間に仏教の教義を理解、日本語に翻訳する。また中国の土木技術をも学んで日本に普及した人物であった」ことを知り、天才的な人物との印象を受けたが、この地でもそのように評価されているように感じた。
兵馬俑
世界的に有名な秦の始皇帝の遺跡、権力者は死後の世界をも支配できると信じて造ったのだろうか、それにしても圧倒的迫力感である。当時の労働者達の苦労も相当なものだったと思う。毎年100万人を超える見学者のおかげで観光業や雇用にも貢献しているものと計算したりして、今は「始皇帝様々」かも知れない。
始皇帝は文字の統一、車軸の統一、貨幣の統一、度量衡の統一など統一国家に不可欠な基準を作ったと言われている。
兵馬俑のこれだけ多数の軍団、指揮官、官僚、軍馬などから、兵士一人ひとりの俑をどのように造ったのか疑問であるが、顔を「粘土」で形をとり、その形へ材質を入れる方法で造ったとの説がある。それにしても兵馬俑の多さには一瞬息を呑むような感じである。
農民だった楊さんが偶然発見したのだが、「史記」には始皇帝が死後の世界を信じてこの巨大な施設を造ったとの記述があるらしいが、一見の価値ある遺跡ではある。
始皇帝陵
中国大陸に始めて統一国家を樹立した始皇帝は70万人の囚人を動員して自らの陵墓を造った。地下には宝石をちりばめた宮殿があり、盗掘を防ぐための仕掛けもめぐらされたというが、秦を滅亡させた劉邦と項羽、その項羽によって破壊され、その後財宝は略奪されたと言われているが、陵墓自体はそのままで現在も発掘されてない、内部には水銀で造られた河があるとの説がある、早期に発掘してほしいと思う。