トルコ紀行と宗教観
                                                    K・U          
概要

 トルコはいずれ行きたい国と思っていたので、大いなる関心はあった。
 トルコ人口7206万人のうちクルド人、アルメニア人、ギリシャ人、ユダヤ人などの民族が少数だがいる。宗教はイスラム教が99%らしいが、キリスト教、ユダヤ教徒もいる。
 面積は78万05平方キロ(日本の約2倍)トルコは別名アナトリア(小アジア)と呼ばれていた、ヨーロッパ人はアナトリアと呼ぶ人が多いという。
 トルコの語源は突厥(トッケツ)からきている。
 突厥は朝鮮半島北部から黒海までのユーラシア中央部に存在したトルコ系遊牧民族国家だったと言われている。
 中央アジアのモンゴルロイドの系統でモウコハンがでる子も珍しくないそうである。トルコ語の文法は日本語に近いと言われている。中国の歴史書に突厥との紛争記事が書かれていたことを思い出した。今のトルコ人のルーツは11世紀に中央アジアから移動してきた民族と言われている。 ローマ時代以前から住んでいたギリシャ人やアルメニア人などと混血を繰り返して現在のようなスタイルになったらしい。
 外見はヨーロッパ人と変わらない、ただし北欧の人ほどは色白ではない。オスマントルコ時代の王様の顔つきはアジア系であると現地ガイドも言っていた。
 時代区分では、ローマ帝国、ビザンチン帝国(東ローマ帝国)オスマントルコ帝国から現在のトルコ共和国(1923年〜)であり、第1次世界大戦の結果、弱体化したトルコはギリシャの侵略を受け、ケマルパシャ(アタチュルク)が指導するトルコ国民党がギリシャを破り、皇帝国家から共和制国家になり今日に至っている。
 トルコ人の親日ぶりは、1890年(明治23年)来日したトルコ軍艦エルトウールル号が和歌山県串本村の沖合いで座礁沈没した時に、助けたり、ケガの手当てで多数のトルコ兵の命を救った事件もあったことに由来している。

第1日成田からイスタンブールへ
 
今回は阪急トラピックス、11:35分成田国際航空第1ターミナルKカウンター集合、荷物を預けセキュリティー出国検査を通り34ゲートへ、定刻の搭乗、機内はほぼ満席、定刻どおりトルコ航空機は日本列島を横断日本海の方向へ、台風の影響で少し揺れたが心配するほどではない、水平飛行になって飲み物サービス、私はトルコの缶ビール、しばらくしてシベリア上空へ来たあたりで食事が出た、メインは2種類の魚料理または豆腐料理から選ぶ、私は魚、妻は豆腐としワインも頼んだ。
 ロシア上空を北西の方向へ進み途中サンドイッチのサービスがあり、ウラル山脈を超えウクライナあたりで夕食のチキン料理が出た。黒海を超えてじょじょに高度を下げイスタンブールアタチュルク空港に到着。
 飛行機を降りると途端に熱気を感じ、日本の酷暑から離れられると少しの期待があったが、脆くも吹っ飛んだ。入国手続きや両替を済ませ到着ロビーで現地ガイドのトルコ人TEOMAN(40歳ぐらい長身埼玉国大2年間留学で日本語は達者、宗教にも深い知識をもっている)が紹介された。夕暮れの空港を後にホテルに向かった。
 バスの中から高層のオフイスビル、マンション、ショッピングセンターなどが建ち並んでいる車外の景色を見た。ところどころイスラム教のモスクがラマダンのライトアップをしていた、イスタンブール名物の大渋滞をゆっくりすすみ現地時間夜9時頃やっとホテルに到着、ルームキーをもらい部屋に入りシャワーを使ってベッドに入ったのは11時すぎだった。

第2日イスタンブールからアイワルクへ

 
ホテルのロビーに7:15集合7:30バスで出発、市街環状線から郊外へと進むとまた大渋滞、途中トラックが横転して大量の野菜や果物が散乱していた、これが大渋滞の原因だったらしい、バスは丘陵地を走り農耕地にはひまわり畑が広がりひまわりの花も見られた。しばらくしてマルマラ海が見え始めた、海岸線には立派な別荘が建ち並んでいた。さらに農耕地を進むと牧草地や収穫を終えた麦畑などを車窓から眺めた、また路上でスイカを売っている露店もあった。テキルダの町を過ぎ丘陵地を上がったあたりでドライブインに到着。
 ドライブインでは100%ミルクのアイスクリーム食べたりした。
 バスはさらに西へ向かい農耕地、牧草地、麦畑、ひまわり畑、果樹園、とうもろこし畑が続き、ゆるやかな丘陵地のどこでも畑になりそうな豊かな大地が延々とつづいている。
 しばらくするとエーゲ海があらわれた。このあたりはトラキア地方といい収穫を終えた水田もあった、さらに進みGELIBOLU半島を過ぎるとマルマラ海がまた見えてきた、このあたりに来ると住宅地が多くなりアパート郡も見られた、まもなく港に到着した。
 昼食のレストランKOCAUSTAに入った。豆のスープ、鯖のグリル、ライス付きチーズロールフライ添え、デザートは甘いケマルパシャだった。
 
ダーグネス海峡横断のフェリーの時間が迫っているそうであわただしい昼食だった。フェリーには沢山の乗客、バス、トラック、乗用車でいっぱいだった。
ヨーロッパからダーダネルス海峡を横断しアジアへ向かうフェリーだ、数隻の貨物船が見える、さわやかな風が心地よかった。LAPSEKIの港に到着またバスで果樹園の広がる農耕地を走る、オリーブの木々も見られた。ダーグネス海峡に沿ってバスは走り続けトロイに向かっているのである。
 車窓から海峡を行く大きなタンカーが見えた。牧草地、農耕地の田舎道を進んでやっとトロイに到着した。バスから降りると熱風が吹いてきた。とにかく暑い日本も暑かったがトルコはもっと暑い、トロイの木馬が見えてきた。
 最初、博物館でガイドの説明があった後遺跡の方へ進んだ。ローマ時代のアテネ宮殿で使われた壷などが雨ざらしのまま、宮殿の土台、石垣、城壁、の遺跡を見学、高台に上ると平原や海峡が見えた。下ったところには神殿の大理石がゴロゴロしていた。4500年前の日干し煉瓦の壁がテントで覆われていた、ヒツサルクの丘、メガロンの住宅跡、ヘレニズム時代の祭壇、オデオンの浴場跡の見学の後、有名なトロイの木馬(観光用に建築)を眺めたりした。
 木馬に入ったメンバーもいたが酷暑と観光用の木馬なので入る気はしなかった。トロイを出発し幹線道路に入ると、また牧草地、農耕地、果樹園の広がる農耕地が続いている、トマト、オリーブの畑もあった、それから森林地帯に入りしばらく走り峠を過ぎてゆっくり下るとエーゲ海がまた現れた。
 遠くにギリシャのエズボス島が見えた、海岸線を走ってしばらくしてKUCUKKUYUの町に入ると素敵な別荘が見え、海岸には海水浴のトルコの人々がいた。(以前マレーシアに行ったときには全身の水着や黒いスカーフのイスラム教徒の人が多数海岸にいたが、トルコも100%近くはイスラム教徒なのにパンツだけの水着だ、海水浴はこれでよい)しばらくしてドライブインKAPTINTOROIに到着。
 一休みしてオリーブ畠と太陽の光が黄金色に反射しているエーゲ海を見ながら走ると、アイワルクの町に入りホテルに到着、チェックインしてシャワーのあとホテル内のバイキング料理が夕食だ。目の前がエーゲ海のホテルなのだがシャワーに入ると泳ぐ時間がない、ツアーメンバーの若い女性が泳ぎに行ったのが窓から見えたがこちらは残念、しかし翌朝食の前に早起きし20分ぐらい泳いできた、海水はきれいだが魚は一匹も見えなかったのはどうしてか少し残念。








第3日アイワルクからパムッカレへ
 
朝7:15分ホテルを出発まだアイワルクの町は静かだ、町を出るとまた農耕地がつづくトルコの面積は日本の2倍だが山林間部は少ない、耕作地と耕作可能地を合計すれば、日本の数倍はありそうだ、EU、ロシアにトルコの野菜果物が大量に輸出されているとガイドが説明したがそのとおりだと思う。日本の野菜は高値なのでうらやましく思った。
 農耕地から今度は塩田があらわれた、今も旧式の塩田で塩を作っているらしい、人影のない海岸を走り、小さな村を過ぎてまた野菜、オリーブ、とうもろこし収穫の終わった茶色の畑、緑の畑と美しいコントラストもいい、しばらくして沢山の発電用の風車が羽を回しているのが目に入ってきた。
 ペルガモの町を過ぎたあたりでトルコ石の店AGADに到着しショッピングだ。特段買いたいものはないがメンバーの何人かは買ったようだ。日本で買うより安いらしい。店をでてまたまた農耕地やオリーブ畑、白い花、黄色い花など何の野菜かわからないがきれいだった、また遠くに沢山の発電用の白い風車が羽を回しているのも見えた。またエーゲ海の海岸を走るとイスラムのモスクが見えてきた。
 ALIAGAという町が見えてくると石油コンビナートや発電所が建っていた。少し行くと巨大な穀物サイロも建っていた、路上にはスイカ、トマト、ウリなどの露店も出ていた。
 バスは高速道路を出て国道D550線に入って桃の木の果樹畑を過ぎてSELCUKの町に入るとヤシの並木、実が付いているオレンジの木の並木を過ぎると、エフェソスの遺跡が点在している景色が現れた。
 エフェソスは古代都市国家の遺跡、アルテミス神殿で有名である。イエス処刑の後ヨハネと聖母マリアがここに来て布教活動を続けたとの説があるが、これは神話の話だと思う。イエスもマリアもその存在の科学的証明はないのである。鉄の発見利用や駱駝で砂漠を移動するようになったのも紀元前1千年くらい前なのに、神話ではそれより1千5百年も前に鉄の武器や駱駝を使ったことなどが語られている。日本の国生む神話も似たりよったりだ。
 ゲートに到着しバスを下車すると熱風が吹いてきた、ガイドからオデオンのアーチ、バシリア、プリタネイオン、ドミティア通り、メルキュール門女神アルテミスの噴水、ヘラクレスの門(ライオンの皮をまとったヘラクレスのレリーフ)遺跡のクレステス通りの両側にはカフェ、商店、レストランなどの遺跡、トラギアヌスの泉モザイクが床に敷きつめられている遺跡、ハドリアヌス神殿(アマゾネスとギリシャの戦いのレリーフ)、公衆トイレ、娼婦の館、図書館、大劇場、ネオポリス、マリア教会などそれぞれの遺跡で説明を受けた。紀元前にこんなにすごい建築物が作られていたなんて全く驚きだ。
 エフェソスを後にしてバスは昼食のレストランSOFRAに到着、トマトスープ、シシカバブ、バターライス、クリームプリン。また、バスに乗りアルテミス神殿に向かう、神殿では神殿の柱や砦が丘の上に聳え立っていた、ここはこれだけでまたバスに乗りレザーショップ立ち寄る。カッコいいモデルたちのファッションショーがあった、レザーの服を買ったメンバーが数人いた。
 バスが山道を過ぎると平原を走る、ポプラ、オリーブ、イチジク、とうもろこしと農耕地が果てしなく続く、長時間のバス移動で多くの人は寝込んでいた。途中の川では子供たちが水遊びしていた、ドライブインに着くと黄色のイチジクや絞り立てのオレンジジュースはおいしかった。バスはパムッカレに向かう、また農耕地果樹園に挟まれた道路をはしった、今度はスイカを売る露天が点在していた、観光客目当ての現金収入を期待しているのであろう。バスがアナトリア地方に入ると、ぶどう園が広がっていた。しばらくしてパムッカレの真っ白い雪化粧のような石灰棚の丘があらわれた。
丘陵地を上がるとホテルに到着、以外にもホテルの中は観光客で混雑していた。チェックイン後、忙しくシャワーを使い夕食会場へ行った、プールサイドのテラスでトルコ風バイキング料理、牛の焼肉、鶏肉、サラダとまあまあの料理であった。トルコ料理はフランス料理に次ぐとのことであるが、日本料理の方が上のように思う。








第4日パムッカレからコンヤへ
 
朝食の前に20分ぐらいだが温泉に入った、温泉といっても黄白色の泥っぽい濁ったお湯で一番暑い池は60度、次のそこから流れ出ている池は40度ぐらいでこれに入った。
 朝食は昨夜と同じプールサイドのテラスでバイキングだった。
 バスが丘陵地を下っていく途中パムッカレの平原とアナトリアの山々が連なる美しい景色が見えた。それからすぐに白い石灰棚をまわり遺跡公園に入るとヒエロポリスの遺跡が広がり、劇場の遺跡を見た椰子の木々の道を抜けると巨大な白い石灰棚の上に来た、石灰の大地が長年の風雨や温泉から流れでた水で侵食されプールのような池の階段が出来たのであろう、原理的にはまだ行ったことはないが中国の九賽江と同じ自然現象と思われる。   
  ここの割れ目には温泉が流れていて大勢の観光客が足湯に浸かっていた、ロシアの観光客の多くは水着で来ていた。
 パムッカレを後にしてバスはまた農耕地、果樹園に挟まれた道路をはしった。途中水量が減少して真っ白くなった塩湖が見えた、バスの中ではトルコ人の運転手が客のためにトルコ音楽を聴かしてくれた。山道に入るとアーモンド、サクランボ、ポプラの木々が続き、赤い屋根の日干し煉瓦造りの家々が点在する村を過ぎた。また大理石の石切り場、製紙工場らしき工場もあった、機械工具を売る市場も見た、昼食はレストランDEMPET豆のミックスオイルフライ、トルコ風ピザ、タスケバのバターライス、ポテトフライ、セモリナとウスプデイングのデザートだった。次のドライブインでは松から採った蜂蜜をかけたヨーグルトを食べた、これは特に美味しかった。普段食べてない物を食べるのも海外旅行の楽しみである。再びバスは高原地帯を走る、サクランボ、リンゴ、洋ナシ、アーモンド、砂糖大根の畑を過ぎた後、日干し煉瓦の工場、砂糖工場、銀色に光り輝くモスクの屋根のある村を過ぎ、バスはコンヤへ進んだ。途中、セラミック工場、イスラム教徒の墓地を車窓から見た。
 コンヤという町は11〜13世紀にセルジューク朝の首都が置かれていたためその当時の遺跡がある。コンヤの市街地へ入ると高層ビルが林立していた。間もなくメブラーナ博物館に到着、青緑のタイルで飾られた霊廟の塔や館内の華麗な装飾が見どころである。
 メブラーナの韻文やアラビア文字で書かれた看板のところでガイドの説明がありそのあとメブラーナの棺を見学した。メブラーナとは神学者メブラーナが興した神秘的イスラム教で「くるくる旋回して踊ることにより神と一体になれる」という教えで円筒形の帽子とスカートで一心不乱に踊ることで有名である。
 今は毎年12月に観光用に体育館で観光客に公開されているとのこと、コーラン、時代ごとのじゅうたん、モハメッドのあごひげ入っているベッ甲の箱なども陳列されていた。 バスの車窓から800年前のモスクやキャラバンサライの壁のモニュメントも見た。ホテルに到着、今度は少し時間があったので今度こそプールに行こうということで、妻とプールへ行った、トルコ人の母子がいて子供は7〜8歳ぐらいで両腕に着ける浮き輪で犬かきのように泳いでいたので、言葉は通じないがクロールのスタイルを形で教えたらそのとおり泳いでいた。
地下1階のレストラン、トルコ風バイキング料理でなかなか美味しかった。旅行中ほとんど食前にはビールを頼んでいた、日本の中ビンより少し小さいビンビールで値段は6トルコリラ(300円)ホテルは高い、街中のレストランでは4リラのところもあるらしい。








第5日コンヤからカッパドキアへ
 バイキングの朝食を済ませてホテルロビーに7:15分集合、既にバスは来てる7:30分出発でも全員集まればすぐ出発、朝日はコンヤの町を赤く染めている、遠くに山々が薄っすらと見える、郊外へ進むと耕作地、未耕作地を含めた平原地帯だ、一直線の道路をしばらく進むと草原が続き羊飼いが沢山の羊を追っている風景もあった。
 小さな村をいくつも過ぎSULTANHANIの村に着くとキャラバンサライがあった、観光バスが何台も止まりドライブインにはイタリア人らしき観光客などで混雑していた。ドライブインを後にまた平原を走り続けて行くと、富士山に似たハッサン山が見えた、AKSARAの町にはベンツのトラック工場があった、トルコは純粋の国産車はないが、部品を輸入して組立てているそうで、ドイツ車が多い、日本車はほとんど見ない、第1次世界大戦ではトルコとドイツは同盟国だったし両国の関係は深い、ドイツへは300万人以上のトルコ人が出稼ぎに行っているという、そのままドイツの市民権をとり永住する人も多いそうだ、 それでドイツでは右翼が外国人排斥をスローガンにして勢力を伸ばしているらしい、歴史的な関係があるだけでなくドイツの奇跡的経済復興による労働力不足や、ドイツ人がやらない3K職場をトルコ人がカバーしてきた訳だから問題は複雑である。
 まもなくベージュ色の高原を走り続けると高原のあちこちに大きな石がごろごろしている景色が見えた。道路端ではジャガイモが大きな袋ごと売られていた。イスラム教徒の大きな墓地とその近くには墓石屋があった、まもなく谷間と谷間には洞窟住居の跡が眺められるところへ来た、いよいよカッパドキアに入ったようだと思ったが勘違い、一面のぶどう畑を過ぎてトルコじゅうたんの工房SULTANHANICARPETに到着、じゅうたんの作り方の説明のあと饒舌と猛烈な売り込みで買った人も数人いた。工房を後にして杏やアーモンドの木々に挟まれた道路を走りぬけしばらく行くとウチヒサールの岩山に着いて写真を撮り、キョレメ峡谷へ進むと洞窟群が現れた。昼食の洞窟レストランBORACAVEに到着。メニューはクリームポテトスープと豆の煮込み、マスのグリルバターライス添え、ライスプティングだった。
 昼食後キョレメ峡谷を戻り鳩の峡谷で鳩の宙返り、伸びるアイスクリームを食べたりした後、バスはカイマクリへ向かった。平原を走りカイセリの町に入ってすぐに地下都市に着いた。地下都市は外の熱気がウソのような冷気で気持ちよかった。狭くて細い通路を下っていくと、敵の侵入を防ぐ大きな丸い石の扉があり、沢山の部屋が通路で結ばれ、教会、倉庫、ワインセラー、台所、石臼なども見ることが出来た。セルベ谷のパシャバではキノコの形の奇岩が林立していた。
 さらに赤い山肌の地層の谷へ進むとシメジのような奇岩、ラクダに似た奇岩なども見られた、またバスでユルギュップへ移動すると大きな岩山に無数の洞窟住居跡があった。
 ローマ皇帝が入信する前の迫害の時代、イスラム教徒に負けたキリスト教徒たちが住んでいたと言われているが、私見だが火山灰の大地は石や硬めの木でも穴を掘ることが出来たから、鉄が発明される前から住居として利用されていたと思う。奇妙な尖がり帽子ののっぽ岩は繰り返し火山灰が降り積もり、硬い岩石が落ちたところは風雨の浸食が遅く進んだためと言われている。
 この点は学者たちによって科学的に解明されている。面白いのはイスラム教徒に負けたキリスト教徒たちが、ここに落ち延びたときこの奇妙な岩山と洞窟を見て、神の救いを感じ信仰の念をますます強くしたと言われていることである。
  物理的に説明できることでも"神の力"と信じる人々は今も多い。
 モスクがある広場に到着バスを下車して坂道を登って、洞窟を改造したホテルに入る、洞窟にベッドや洗面、ジャグジー風呂、トイレ、電気、テレビも設置され壁面以外は普通のホテルほとんど変わらないが、洞窟ホテルは高いのである。部屋の構造に少し違いがあるので添乗員の提案でくじ引きで決めた。幸いツインで補助ベッドもある案内のチラシに掲載されている部屋が当たった。
 少し暗い電球だがシャワー、トイレを使いホテル内のレストランへ行った。
 クリームベジタブルスープ、豆の煮込み、グリルチキンのバターライス、生野菜添え、プディングおこげとデザートはアイスクリームだった。
夕食のあと夜景と星空を見に屋上へ行き、オリオン座や北斗7星などを見たのは良かった。










第6日ユルギュップからイスタンブールへ
 朝食の前に昨夜の屋上に行ってみると沢山の気球が飛んでいた、観光客が空から眺めているらしい、遠くの牧草地には羊の群れがいた、バスに乗りカイセリへ向かった。
また牧草地や巨大なサイロ、穀物の加工場らしき建物を見たあとカイセリの町に入ると、アパート群やバスターミナル、新しいサッカー場などもあった。
 トルコは鉄道より道路網に力を注いでいるため道路網はよく発達しており、バスターミナルは各都市にありバスは市民の足になっている。
 まもなくカイセリ空港に着いた。カイセリ空港はトルコ空軍と併用していて暗緑色の空軍機が十数機並んでいた。地方都市の空港だがロビーには多勢のトルコ人が待っていた。セキュリティチェックをへてゲートへ進みTK2011便に搭乗、50分ぐらい遅れて出発、座席は満席だ、水平飛行になってからサンドイッチのサービスがあった。
 1時間ほどでマルマラ海が機上から見えた。ほどなくイスタンブール空港へ到着、またこちらの専用バスで空港を出発、高速道路にでてしばらくすると、大きなショッピングセンターや高層アパート群やイスラム教徒の墓地を見たあと、バスは高速から下りて城壁沿いから金閣湾沿いに走り、レストランSULTANに到着、昼食メニューは豆のスープ、ドネルゲバのバターライス、チーズロールフライ、チョコレートプディングなど、またバスに乗り、オリエント急行終着駅のスイルケシ駅前からマルマラ海へ進むと海水浴のトルコの人々がいた。スルタンアフメット1世の公園に入ると、ブルーモスクやアヤソフィアの美しい建物が目に入ってきた。
 ブルーモスクで靴を脱いで入ると外気とよりずっと涼しかった。美しいタイルで装飾されたモスクにはイスラム教徒の人々が祈りを捧げていた。巨大な空洞の天井から無数のランプ下げられて荘厳な内壁を美しくさせている。
 次にトプカップ宮殿に向かった、皇帝門をくぐりマロニエの並木を歩いていくと国立考古学博物館があり、セキュリティチェックを受けた後トプカップ宮殿の説明を受けた。
 宝物館、図書館、謁見の間などを見学、宮殿の門などはアラビア文字で刻まれておりオスマン朝の名残を忍ばせていた。
 しばらくしてフリータイムがあり一番上の第4庭園に行くとイスタンブール市街、ボスボラス海峡、マルマラ海が一望できた。バスに戻り、ガラタ橋、金閣湾、アタルチュク橋、ローマ時代の水道橋などを見て夕食のレストランGARへ着いた、トルコ風前菜盛り合わせ、ビーフかタラの料理選択、サラダ、アップルパイなどであった。午後5時ごろホテルに到着一休みしてベリ−ダンスショーを見に行った。半裸に近い美人がくねくねと腰を回すダンスは艶ぽっかった。







第7日ボスボラス海峡クルーズの後成田へ
 ボスボラス海峡クルーズはOPだったが、ほとんどのツアーメンバー参加した、ガラタ橋傍の船着場からボスボラス海峡クルーズが始まった、金閣湾からボスボラス海峡に入ると遠くに1973年完成の第1ボスボラス橋、1988年完成の第2ボスボラス橋が見えた。
 現在、日本の大成建設が13.7キロの海底トンネルを2012年の完成目指して工事中とのことであった。もともと黒海は内陸海であったが、紀元前数千年前地中海の海面上昇で地盤が崩壊し黒海とエーゲ海が繋がったらしい。
 海峡の特に西側には、明るいだいだい色の屋根の住宅、別荘、ホテルなどが海峡の景色にマッチし美しい風景であった。ボスボラス海峡をはさんで西側がヨーロッパ東側がアジアである、まさに二つの文化の接点がここである。
 もちろんヨーロッパ側もギリシャまでトルコ領である、つまりトルコは二つの文化を併せ持つ国である。トルコ語を共和制初代大統領アタチュルクがそれまでのイスラム文字表記をローマ字表記に改めたことは、トルコの近代化やその後の文化の発展に大きな影響を与えたし、国民も抵抗なくこれを受け入れたのもこの地政学的存在の影響も大きいものと思う。
 日本は中国の古代国家制度や文化のおかげで漢字を使い、律令制による初期国家の成立や文化の発展で今日があるが、もし日本語をローマ字表記にしていたら英語の苦労はなかったものと思ったりした。
 生まれ変われるものなら次はトルコ人に生まれてもよい、貧富の差はあるが日本の非正規社員などのような格差はないようだ、なにより穀物や果実が実に豊かである。
 トルコ人はみんな明るく地域社会の信頼感を感じられるのである。現在トルコにとって最大の課題はEU加盟であるが、これは時間の問題であろう。
 クルーズは2時間で終了、悠久の人類社会を見て来たボスボラス海峡と別れて空港へ向かった、イスタンブール発現地時間18:30分、夕食と朝食ともトルコ料理、機内の睡眠は苦手だが少し寝たらしい、成田には17日11:45頃着いた。ツアーメンバーに挨拶し八王子へ向かった。
 トルコの農地の紹介記事が多かったけど、実際の感想なのでご理解願いたいと思う。今回の旅行で宗教について感じたことを以下に書いてみました。




 雑学宗教観
  
現地ガイドのティオマンさんは、埼玉国大で2年間日本の国費留学で日本語を学んだと言う、トルコでは大学で経済学を専攻したとのことであるが、宗教学にも相当深い知識がある。しかも2年間で日本語が普通の日本人以上に上手、日本語で冗談も言う、かなり頭のいい人だ、ツアーメンバーみなそう感じているようだった。
 今回の旅行で宗教についていろいろな意味で考えさせられた。恥ずかしながら筆者自身父の葬式で浄土真宗だったことがわかり、葬式業者に浄土真宗の寺を頼んだのだった。
 最近読んだアメリカの宗教学者の説によると、聖書には16000箇所の間違いがあると言う、世界で最も古い聖書は大英博物館にある羊の皮に書かれたものだが、それでも紀元200年頃のものだと言う、聖書自体文字の発明以前のことがらが書いてあるし、無学文盲の書記が元の聖書を書き写す時のミスもあるし、多少文字と宗教の知識があった場合では自己の主観で次々書き足しや省略が行われたと言う。
「イエスが処刑される時に処刑執行人の許しを神に祈った」と言う記述は初期の聖書にはなかったと言う、紙の発明は紀元70年頃であるし、貴重な紙が聖書に使われるのは更にもっと後であるから、1千年以上の期間数万数千人の書記たちが聖書を書き写して来たわけだ。
 ローマ皇帝コンスタンティヌスがキリスト教に入信、紀元313年勅令を発して国教にしたことで当時いくつもある弱小宗教の一つだったキリスト教が、一挙に巨大宗教になったことは歴史的事実、権力者に好都合の教義があるためといわれている。その一つが「人は自己の境遇を恨んだりしてはいけない」奴隷は奴隷として、農奴は農奴として、女性は女性として、社会の最下層の人々が従順に権力者に従うことが、皇帝、教王、貴族たちの期待だったわけだ。日本でも平安時代朝廷は天台宗延暦寺を護国宗教としていた。
 16〜18世紀に世界はヨーロッパの帝国主義国家の植民地にされたが、最初植民地に行ったのは牧師達だった。
 
信仰は来世の幸せを約束する、来世は貴族か金持ちになれるとか、虐げられている人々が従順であり続けるための保障が宗教だ、宗教は人権にはほど遠いのではなかろうか。
 たとえばスラム教では男は4人まで妻を持てるが女には認めてない。また人前では肌の露出を禁じているが、アラブの大金持ちの一族が海岸を借り切り海水浴を自由に楽しんだという話もある。他の宗教の戒律も大体同じで人権思想は程遠い、全ての宗教の原典を読んだわけではないが筆者はそう思う。
 トルコは共和制以降、世俗主義を政治の根本原理として確立、政教分離を徹底している。近隣のイスラム国とは大きく異なる。政教分離は人類社会の到達点だ、日本は先進民主主義国と言われるが、自民党と連立した公明党は宗教団体と密接な関係にあるし、政治家が宗教団体に応援支持依頼するのも珍しくない。この点ではトルコの方が先進国だ。
 神の存在を信じ、こつこつと日々の労働に勤しみ、来世のしあわせを期待し皇帝や貴族などの権力者に反抗せずに、貧困に苦しんでも平穏な人生を送ることで子々孫々と続く人間社会の歴史があったことも事実だろう。
 おそらく1千年ぐらい後の人類社会では、神の存在を信じている人はゼロであろう、地動説がコペルニクスによって唱えられ、ガリレオによって証明されてから400年余、それまでは紀元前から学説として天動説が信じられていたし、ガリレオも地動説を公にしないことで、火あぶりの刑を免れたのである。   惑星イトカワから物質を採取して戻ってくるなどという最高の科学技術の時代でも、多くの人々は飢餓、貧困、差別からの解放を政治に求めず神に求めているのが今の現実である。
 旅行紀行文が雑学宗教観になってしまったが、今回の旅行で感じたことなのでお許し願いたいと思う。