佐渡ケ島 周遊記 


大曽根 悦朗


 佐渡ヶ島へは、ぜひ一度は行ってみたいと、数年前から思うようになっていた。昨年も迷ったが、結局出かけずじまいで終わった。
 新潟からそれほど離れていない比較的大きな島で、海の幸に恵まれ、トキ、佐渡金山と拉致の悲劇の島というイメージがある。一番の魅力は、何となく海の幸を満喫させてくれのではと期待が自然に沸いてくるところだ。
 今年はまだ、何処にも行っていないという会話から始まった。問題は、常に「何処へ」が最大の問題である。初めから自分ですべての計画を立てるつもりはないので、比較的近場で、時間的にゆったりしたツアーとして佐渡に決定した。
 良い写真を撮ってそれを絵にしたい。あわよくば、短い旅行の思い出を書いてみようと密かに思っていた。画入り文章の練習にもしたい。

 2008年8月3日(火)〜5日(木)の3日間。最大の問題はお犬様問題である。我々が出かけるとき、常に動物病院に預けるのは可哀想という問題である。結局、子供に夏休みを取らせて解決。
 事前に天気予報で確認していたが、新潟地方は天気が良さそうである。東京駅へ出るのも大変だ。八王子から座って行きたいという意志が最優先にされる。ラッシュがどうなるか気がかりだ。

 当日、十分時間を取って、八王子始発に乗り込んだ。車外はどんよりとした曇り。蒸し暑さは変わりない。新幹線に乗り込んだときは、車窓をかなり強く雨が打っていた。2階建てのグリーン車はゆったりと見晴らしがよい。
 大宮を過ぎる頃には、すっかり雨は上がっている。東京から離れるに従って、薄日さえ出てきた。新潟に着いたときには、強い日差しが降り注いでいる。紫外線に弱い腕がひりひりするのでは、と気になる。
 船の中には売店はないとの情報は一大事。島に渡る待合室での昼食後、早速、船中の楽しみを探して徘徊。結局、真っ黒なさきイカと越乃寒梅一合カップを入手して、一安心。
 家内は、新潟在住の友人に電話している。島には何も無いと言われたらしい。確かにお楽しみ所は無いかもしれないが、景色と新鮮な魚さえあれば満足である。
 船賃はと見ると、ジェットホイルは所要時間1時間、団体で往復1万9百円。高いと感心するやら、旅行代金に占める割合を計算している。少し旅行の質が心配になる。フェリーは2時間半で、運賃も割安になっている。
 座席指定。時速70〜80キロ、走行中はシートベルト着用。これでは揺れない大型バスに乗っているようなものだ。一杯やる気も起こらないが、早いのは有り難い。
 佐渡ヶ島両津港に着いたのは、午後3時。2ヵ所見学しての早い宿入り。初めての見学地が、佐渡・能楽の里。早速文化と歴史の香りである。何故、佐渡が能楽なのか良く分かった。
 庶民の生活の中に能楽が浸透しているところは全国でも珍しいらしい。能の大成者・世阿弥が佐渡に配流されたことと、能楽師出身の佐渡奉行、大久保石見守長安が能楽を奨励したことがおおきく影響しているとのこと。次第に神社に奉納する神事として発展していった。現在でも数多く舞台が残っていると聞くと、佐渡の魅力も倍増する。
 その一つではないが、道の駅の能楽の里。本格的な舞台と能衣装のロボットが常時「道成寺」演じて見せてくれる。短い時間、おさわり程度である。観光客用の常設館で、それより30以上残っている能舞台は、佐渡の文化、芸能の深さ、心の豊かさの一端を感じさせてくれる。心だけでなく、飲むヨーグルトでのども潤した。
 佐渡と言えばトキ、トキと言えば佐渡。絶えたトキを繁殖させ、何とか自然に返したいとの願いが実現する。どうして絶えたかと言えば、撃ち殺されたり、人間のエゴが絶滅に追いやったのだ。餌が農薬に汚染され、食べ物さえいなくなった結果である。環境破壊である。
 今では、123羽まで増え、今年秋には自然に放そうとの計画が進んでいる。トキが生きられる環境は、正に人間が生きられる環境なのだ。大空に、朱鷺色が舞っている姿を想像するだけで、心が豊かななる。想像でなく、切にそうなるのを祈らずにいられない。
「佐渡ヶ島の形は何に見えますか」と聞かれても咄嗟に出てこない。羽がびっこの蝶かなとも思ったが、
「サツマイモを2つ並べたS字形です」
と言われて見ればそのように見える。北のサツマイモが大きく、寒流の影響を受けている。南のサツマイモは小振りで暖流の影響を受けている。雪の積もり方と植物の分布がガラッと違うらしい。二つのイモに挟まれた国中は平野になっていて、穀倉地帯だ。ここで収穫されるコシヒカリは、魚沼と遜色がないそうだ。寿司めしの多くは、魚沼産を使うと高過ぎるので、佐渡産が使われているらしい。新潟産と言う限りは詐称にはならない。ここでは地理の勉強にもなる。
今日の宿は、八幡館。佐渡で一番の宿であるらしい。何しろ昭和天皇もお泊まりになった宿である。散歩された道も残っている。
 展望の良い食堂での夕食は、海の幸三昧では無かったが、ゆったりとした時間を与えてくれる。旅の醍醐味である。骨まで食べられカレーの唐揚げは印象に残ったが、あとは何が出たかは思い出せない。イカ刺しだけは、この日から6食続いたのは覚えている。
 夕日が沈むあかね色の空、明日も天気が良さそうだ。

 朝食後の時間はタップリある。早速、天皇の散歩道へ入ってみた。入口に小さな標識が立っているだけ。松林の小径で、隣の佐渡博物館への2、30メートルの近道。散歩道と言うには失礼である。同じ道を歩いたというのが価値があるのだろう。
 宿を発つとき偶然見つけた天皇皇后両陛下が階段を下りられる写真が階段に掛かっている。同じ階段を下りた証拠に、写真を左手に配して、畏れおおくもパチリ。
 今日は、佐渡金山をメインに大佐渡(北部)を中心の観光。佐渡一番高い山の金北山1,172メートルの側を通る大佐渡スカイラインから、金山に向かう。地図で見るとかなりの回り道である。右に左にカーブを回る度に日本海や国中平野が眼下に見える。
 佐渡にこれほどの山があるとは想像もしていなかった。冬には深いところで10メートル近い雪が積もると聞くと、ただ驚くしかない。近年は暖冬で、積雪は数メートル低くなっているらしい。それよりも一番気になったのは、山栗の木の多さである。さぞ、拾えるだろうなとついさもしい気持ちが先に立つ。
 露天掘りの名残、2つに裂いたような山が見えてきた。相川の金山も近い。1601年に発見され、1989年まで続いた。実に400年間近くも日本財政に寄与したのだ。徳川時代の無宿人を佐渡へ送り水替人足として使役した悪代官が出てくる時代劇の知識ぐらいしかなかった。
 坑道を入るとヒヤリとする湿気を帯びた冷気が、暖まった体には心地よい。水替え人足が細長い筒状の物を回転させている。水が筒を伝わって上に上がって来る仕掛けになっているらしい。どうしても中がどうなっているのか分からない。当時のハイテク技術だそうだ。釣瓶のようにくみ上げているのかと想像はしていた。岩盤を鑿でほる金穿大工は、坑内労働者の中では技術者として優遇されていた。普通「ほる」は掘るであるがここでは「穿」という字が当てられている。正に固い岩盤に穴をあけるという意味であるのが良く分かる。
 坑道を縦割りした模型は、ガラスの器に作った蟻の巣だ。迷路のように入り組んだ。このような狭くて、暗くて、湿気が多い中で働いていた人のことを想像しただけで、身震いがする。よくぞ今の時代に産まれたものだと思う。
 地上に出て来て見る鉱山のジオラマは、鉱山全体の仕組みを見せてくれる。地下は一部であり、金の延べ板にするまでの全工程。実に大勢の人間が働いている。蟻の大群と言ったら罰が当たりそうだ。ここにしか行き場が無かったのだと思うと、昔の人々の生き様に敬意を払うしかない。
 小さな穴から腕を入れて、1本12.5キログラムの金塊を取り出したら記念品贈呈。片手で重すぎる。動かせるが、持ち上げて引き出せるはずがない。腕っ節のある人の腕は初めから入らない。お遊びであるので文句はでない。
 金色にあてられたのか、出口のベンチでかなりの人が休んでいる。金粉ソフトクリームをいただいたので、金の毒気にあたらずにすんだらしい。
 昼食会場への途中、夫婦岩では一休み。二つ並んだ岩は至るところで見かけるが、どうしてこの岩が夫婦なのか? どちらが男で女なのか聞いてみたかったがやめた。何となく形をみて勝手に決めて、小さいのは子供だと思っていた。家内に言うと、嫌な顔をされたが、これもまた楽しみの一つだ。
 昼食前の芸能鑑賞。さすが芸能の島である。土着の文弥人形芝居は、明治になり盲人の座語りであった文弥節に、動きを細やかなものに工夫して作りだしたものとの解説。人形自体はごつごつした手で作ったような素朴さがあり、古浄瑠璃に乗って演じられる。
 出し物は山椒大夫のくだりで、人買いによって裂かれた母と娘の悲しい再会の場面である。盲目になった母が、我が子と知らず打ち殺してしまう。息を引き取る間際に我が子、我が母だと知り、嘆き悲しむ物語である。
 いざ食べ始めると、悲劇の余韻も何処へやら、胃の腑への充填に忙しい。順番を逆にして、食事後鑑賞であったら悲しさも伝わり方が減っていただろう。
 インターネットを見ていて、
「佐渡は、北陸や西日本の影響を強く受けた。古くから貴族や知識人たちが京よりこの島に流されてきた。西回り航路が開かれてから西日本や北陸の文化が直接佐渡に運ばれた。大きく分けて3つの文化が佐渡の中でもそれぞれと強く関わった地域を中心に発展し、定着した。貴族文化(国仲地方)、金山の発展で、江戸から持ち込んだ武家文化(相川地方)、商人や船乗りたちが運んできた町人文化(小木地方)。これらが混然一体となって育まれた佐渡独特の文化は、気候・風土とともに「佐渡は日本の縮図」というに相応しい」
と書いてあるが、何となく納得できる。
 午後の目的地、島最北端の二ッ亀。約1時間半の行程は、お昼寝タイム。文化の香りも抜けたころ、到着。目の前に大きな亀の左側面の頭、首、甲羅に見える。二匹目は裏側に居るらしい。近くの大野亀から見ると、二匹の亀が並んで居るように見える。海に近い方の亀さんは波の影響か、どうも少し崩れかけているように見える。二ッ亀も一ッ亀に名称変更が必要になるのではと馬鹿な想像を巡らしている。
 カンゾウの花や透き通る海でも有名な二ッ亀・大野亀、荒々しい岩場が多くみられる景勝地。大野亀を出ると、いよいよ道は日本海に沿って南下していく。
岩盤をくりぬいたトンネルは中型バスがやっと。さらに、海府大橋は深く切り込んだ谷間に掛けられた橋で、絶景の写真スポット。中型バスが通れる巾しかない。大型バスは島を周遊出来ない30乗りのバスの謎が解けた。
 今日最後の見学地は、奇岩を配した国定海中公園の尖閣湾。先端部の売店、美味そうなイカ焼きが目に付く。「君の名は」の撮影地であったというのも直ぐ忘れた。昨夜のテレビで、タレントがイカ焼きを美味そうに食っている映像を見ていた。ぜひ、食べたいものだと唾を飲み込んでいた。
 早速、賞味してみて失望感が広がった。イカの旨さがない。新鮮なイカを自宅で焼いた方がよほど美味い。家内からは蔑まれた屈辱に耐えていた。結局、食べきれずにもったいないが捨てる羽目になってしまった。これも勉強。食い意地は、何にも優る。
 今日の宿は、七浦海岸の中にある海岸の崖の上に立っていた。宿の周囲は芝生が敷き詰められ180度近く海に向かって視野が開けている。夕日がきれいと聞くと迷カメラマン魂が騒ぐ。
 湯上がりの浴衣がけ、日差しの強かった日中が嘘のようだ。爽やかな風が寒くもなく、全身を包んでくれて心地よい。目の前に日本海に沈むあかね色の壮大なショーが始まっている。クライマックスには、
「きれい、すばらしい、見たこと無い……」
人の声さえ聞こえない。ただ、自然の演出に飲み込まれている。
 何とかこのチャンスを物にしたと、絞り優先、シャッター優先、ISOを切り替えと設定値を頻りに変えた。その度に、画像の違いに戸惑っているばかりだ。一貫した技術が無いのだ。
 黄色い玉が地平線に掛かり、完全に沈むまで撮り続けた。添乗員でさえめったに見られないと言う言葉に、幸運を噛みしめている。丁度、6時45分の夕食タイム。
 天空ショーの余韻も、現実の味に目が覚める。カニと格闘している内に、思い出になってしまった。

 部屋の窓から見る海は、朝日映えてコバルトブルーに澄みきっている。海面に突き出た岩は、陸に向かってくる怪獣のようにも見える。近景を配して、遠景までのパノラマをものにしたと、シャッターを切るが、画質が定まらない。明るすぎる、暗すぎる。ここでも、カメラの難しさ、奥行きの深さを思いしらされる。
 朝一番、造り酒屋見学の試飲に期待が膨らみ楽しみだ。連続して金賞受賞の蔵元。説明を聞くのもそこそこに、試飲・試食会場へ流れ込む。
特に、フルーティな香り、軽快でマイルドな飲み口。小瓶はエールフランス機内ビジネス用に常時備え付けの酒、真野鶴といわれると一口といわず味わいたい。本当に一口、2CCぐらい。次の酒へ移動する。何杯も飲ませないような仕組みになっている。これぞ販売戦術だ。
人の流れも、滞在時間も。お許しが出て小瓶の真野鶴を買い込んだ。
次に訪れる承久の乱で破れて流された順徳上皇の御陵参拝に、あまり飲ませるわけに行かないのだろうと無理に納得。
 次も楽しみな、町並み保存されている宿根木。何となく、茅葺き屋根の宿場を想像していた。絵になるのではと期待が膨らむ。屋根には石が載せられていて、千石船の往来で栄えた町と言うと華やかなイメージも沸いてくる。
 実際は千石船の造船所兼住宅地であり、その繁栄と衰退の歴史が町全体に刻まれている。当時は、海辺の100メートル四方の狭い場所に200軒以上の建物が密集していたらしい。建坪率100パーセント近く、路地はやっとすれ違えるだけの巾しかない。敷地は単純計算すると、平均50平方メートル以下しかない。石畳は丸く凹んでいて、人の往来が忍ばれる。「世捨て小径」なんて意味深な径もある。世を捨てる、あの世への径かな?
 建物の材木は、廃船になった千石船の材木が再利用されていて、外壁は焦げ茶色に塗られ、窓が極端に少ない。日光は余り入らず、中は暗いだろうと陰気な印象だ。当時は家の税金は、窓の大きさで課せられたので、少なくなったらしい。しかし、中の作りは立派で、漆塗りの赤黒く輝く柱、床、板戸、天井は繁栄の名残を残している。我々の感覚から言うと、住みやすいとは到底思えない。村の前の浜には、たらい舟が係留されていた。今でも漁で活躍しているらしい。暖流の影響を受けるとはいえ、冬の季節風が吹きつけ雪が降る佐渡のイメージとは合わない町造りである。小佐渡では、各家の屋根は黒の瓦である。雪下ろししなくても、瓦の熱で溶ける知恵だとの説明だったのを思い出した。
 再建された千石船は車窓から見るだけだったが、パンフレットによると、大きさは全長24メートル弱。高さ6.6メートル、77トン積。近くで見ると、貫禄がある木造船。
 車窓から、たらい舟が見える。箱めがねでしきりに海の中を覗いている。実用から生まれたたらい舟が、今では観光用に一役買っている。人気の乗り物だ。
 小木港に観光用の特設エリアが設けられている。待つこともなく乗り込めた。運転手を含めて3人乗り。舵一本で推進と方向を決める。初めてやっても上手く操れないのは当然。8の字を書くようにして下さいと言われてもおいそれと進んでくれない。ぐるぐる回りするばかり。諦めるしかない。

 舟漕ぎの後の最後の昼食。これで全行程終り。後は、両津港へ戻り帰るだけだと思っていた。最後のご褒美、ツアー慣れしたカップル。集合も早い。時間に余裕ができたので、ボーナスで1ヵ所追加になった。島で唯一の5重塔がある妙宣寺。日蓮聖人縁のお寺の名刹である。山門は茅葺き屋根で300年以上経っている一番古い建造物。広い境内は、夏の強い日差しに、どの建物も輝いて見える。本堂はさすが、瓦葺きの大きな伽藍。ぜひ、絵になる所はないかと盛んに切り取った。本当に得した気がしていた。   (完)

Copyright ©片倉台ホームページ委員会 All Rights Reserved.