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原 爆 体 験 記

東  健 男


 
はじめに
 以前から記憶が薄れないうちに原爆前後のことを記録として残して置きたいと,思いつつ も、なかなか机に向かう気力も湧かず、長崎の原爆被害から丁度6 0年になった2005年夏に気力を振り絞って書きはじめた。しかし、残念ながら気力はなかなか続かず、とぎれ勝ちになり、思うように進まないまま、時間ばかり過ぎて行った。その後、色々なことを思い出しながら書き足しているから仕方ないのかもしれない。
 だが、少しでも早く完成させた方がいいに違いない。先ず原爆が投下された頃はどんな 状況たったのかということから書き始めたい。

 1.原爆が投下された頃の環境

 昭和2 0年8月9日。長崎に原爆が落ちた日、私は旧制長崎県立長崎中学校の4年生だ った。当時は戦局も開戦当時と違って米軍の物量攻勢には勝てず、不利な状況になってき ており、我等中学生も兵器生産のため学校へは行かないで学徒動員として軍関係の部品の生産作業に従事することになった。動員先は三菱重工業長崎造船所であった。中学2年生の頃から、農村の出征兵士の留守家族の畠仕事のお手伝いとか、三菱造船所 の飽の浦の舟艇工場で魚雷艇のビス穴へのパテ塗りの手伝いに行ったこともあったが、本格的動員は中学3年生の時から始まった。
 最初は、昭和1 9年4月からで、勤務地は大橋にある造機工作部の第三機械工場であっ た。仕事はジャネー油圧ポンプという船の舵取り装置の仕上げ・組み立て・運転・テスト であった。昭和1 9年1 0月から一旦学業に戻り、翌2 0年4月に4年生になってから再度、工場で働くことになった。戦局がいよいよ逼迫してきたので、危険を避けるため工場 は大橋から戸町のトンネルの中に移転され、作業も「 5式魚雷」のエンジンの組み立て・ 試運転作業をすることになった。
 後で考えると私には運が付いていると思われることが二つある。一つは、若し工場が大橋から戸町に引っ越していなかったら爆心地に近い大橋では私の命はなかっただろう。今 一つは、戸町のトンネルの中の工場のレイアウトができるまでの間、トンネルの近くの舟艇工場で作業をしていたが、トンネル内のレイアウトが完成し、トンネルの中に引っ越し た数日後空襲があり、われわれが作業していた舟艇工場は爆撃でペタンコになってしまっ ていた。若し、トンネルの中への引っ越しが数日遅れていたら私たちは命がなかったか大怪我をしていただろう。
 7月末ころB25爆撃機の3 6機編隊が長崎に飛来した。長崎港の方からこちらの方へ 進んでくる。米英軍の戦闘機、爆撃機など雑誌を見て知っていたから実物が飛んで来るの を見ると好奇心旺盛な中学生の年頃で、実物を見るのが面白くて堪らない。今、飛んでき ている飛行機は正しく B 2 5。姉や母は早く防空壕に入れと叫ぶが、こちらは屋根の上に 登ってゲートルを巻きながら飛行機の数を数えている。4機編隊が9個だから3 6機が長崎港沖の方からどんどん近づいてくる。それが黒いものをバラバラと落とした。爆弾に違 いない。しかし、それは高度とスピードの関係からずっと手前に落ちるに違いないと思っ て心配しなかった。果してそのとおり香焼にあった川南造船あたりに落ちた様で、土煙が 上がった。

 学徒動員で工場での作業は楽しかった。大橋工場では船の舵取り装置に動力を伝達する ジャネー油圧ポンプの組み立て試運転の仕事を与えられていたが、最初は仕上げ・組み立 ての基礎となるヤスリの使い方、タガネとハンマーを使つてのハツリ方、スクレーパと赤ぺンを使つての面取りのすり合わせなど、今で言うオン・ザ・ジョブ・トレーニングで教 えられた。何ヵ月かするうちに組み立て試運転の仕事も任されるようになった。自分で組 み立て試運転をしたジャネー油圧ポンプがクレーンに吊られて納品されて行くときは「俺が組み立てたポンプはどの船に乗るのだろうか」と思うと本当に嬉しく、クレーンに吊ら れたポンプに思わず挙手の敬礼をしたものだった。

 戸町のトンネル工場に引っ越してからは5式魚雷のエンジンの組み立て・試運転が仕事 になった。構造原理はジャネーポンプと似たようなもので、ジャネーポンプが油圧で動く のに対して5式魚雷のエンジンは圧搾空気で動くという違いがあった。 最初に出来てきた各部品をを図面どおりに組み立て、試運転にかかった。どんな動き方をするか興味津々、圧搾空気のホースをエンジンに接続し、徐々に空気圧を上げていった。 ところがエンジンは回らない。更に空気圧を上げていったら、漸く動きはじめたはいいが エンジンそのものが踊りだした。押さえつけても人力ではどうしようもないほどだ。試運転をあきらめてエンジンを解体し所定の空気圧で動きださない原因と振動の原因を検討した。

 そのころ、本社から5式魚雷のエンジンの見本が送ってきた。早速、試運転をすることになり、圧搾空気のホースを接続し空気を入れた。するとどうか、エンジンが滑らかに回転し始めたではないか。さすが見本だと思った。ところが空気圧を上げていき所定の回転数に近くなるとエンジンが踊りだす。これでは魚雷が尻を振って進んで行くわいと笑ったものだった。これに刺激を受けて、よーし、工場の人の指導を得ながらでも、我々中学生の手で期待どおりの物を造ろうとファイトがわいてきた。
 問題は回転部分のバランスを如何によくするかということであった。そのためカウンタ ーウエイトを少しづつヤスリで入念に削りながらバランスを調整していった。この様な作 業を繰り返しては試運転をしていったところだんだん回転し始める空気圧は小さくなり、 踊りはじめる回転数も所定の回転数に近付いていった。このような作業を繰返し遂に圧搾空気を入れただけで滑らかに動きだし、所定の回転数まであげても踊り出さなくてびくともしないものが出来上がった。我々は遂にやったのだ。これで尻を振らない魚雷のエンジ ンが出来上がったのだ。でも、これを茂里町の兵器製作所まで届けるのが大変だった。戸 町から何キロか先にある市電の通っている松ケ枝町まで二人で天秤棒で担いで歩いていって市電に乗り、千馬町で乗り換えて茂里町へ届けるのである。夏の暑い盛りで、若い中学生にとっても重労働だった。このような方法で何台か届けられた。 このようにして届けたエンジンは魚雷に装着して試運転されたが、所定の時間稼働した ら焼きついたということで返却されてきた。このようなことに繰り返し挑戦している時に、 遂に原爆の日がきたのである。

 2 . 原爆の日

 8月9日、その日も雲はあったが真夏の暑い日であった。原爆が落ちた時、自宅 (当時 の住居表示で上筑後町3番地、現在の表示で玉園町2番2 9、家の前は永昌寺という曹洞宗のお寺であった) の玄関先で上半身裸のまま親友の田中八郎太と話していた。彼は幼稚園から小学校・中学校と一緒で最後は長崎経済専門学校も一緒だったが、原爆を受けたの も一緒だったのは深い因縁であったのだろうか。その日は工場への勤務は夜勤で、午前中は自宅にいた。その頃は参考書の数も少なく、学校には行かなくても将来の受験に備えて 勉強をするため、お互いに持っていた本を貸し合ったりしていた。その日も互いに本の交換をするために彼は私の家に来ていたのであった。
 玄関で色々話しているうちに、それまで気にも止めていなかった飛行機の爆音が急に大 きくなった。何だろうと二人とも道路に出て空を見上げた。諏訪神社の森の上空の雲の切れ聞から落下傘が2つ落ちてきているのが見えた。これもまた何だろうと思っていたら、 「ピカーッ」ときた。方角は家の正面で永昌寺より上の当時、忠霊塔と言っていた小高い丘の方向。昔、写真を撮るときのマグネシウムを沢山一度に火をつけたような色だった。 落下傘の方角とピカッときた方角が90度相違していたものだから、これもまた何だろうと思っていると、機敏な田中は危険を感じたのだろう、玄関の中へ走り込んだ。そもそも 鈍な私は好奇心の方が強かったが避難するに越したことはないと彼の後から玄関の中へ走り込もうとした。そこへ大きな音と一緒に爆風がきた。所謂「ドン」、合わせて「ピカドン」だ。
 先に走り込んだ田中は玄関のガラス戸の下敷きになって、頭をガラスで切り、血を流している。私は無傷。人間、何がどうなるかわからない。
 飛行機の爆音が急に大きくなったのは、原爆を投下したあと、爆風を受けないよう急速 に避退したのだろうと想像している。雲の切れ間から見えた落下傘は原爆そのものでなく ラジオゾンデという測定器という話だ。
 田中が頭から血を流していたのが気になり、裸足で立山の彼の家まで走って行ったが家族全部留守だった。先ず自分の家族の安全を確認しなければならない。その時、母は体調不良で1階の表の部屋に寝ていた。姉、直ぐ下の妹は家の中にいて無事、外にいた弟は暫く して見つかり、末の妹は古川家の「さだぼう」と呼んでいた子が連れてきてくれた。これでとにかく全員無事だったことが確認できた。
 あれだけの爆風だ。近くに爆弾が落ちたに違いない。どれくらい被害が出ているか2階に上がってみたら裏の離れの屋根瓦が魚の鱗を剥いだ様に逆立つている。1階の方は表の 道路に面した部屋に嵌められていた格子から裏の離れの部屋の障子など全部吹き飛んでし まい、丁度、お宮日の庭見せみたいに表から裏の庭まで見通せる様に筒抜けなっていた。 柱時計は畳の上に落ちている。針は1 1時過ぎを指していた。 原子爆弾なんて知る由もなく、うちの近くに爆弾が落ちたとばかり思っていたので、この事を会社にいる父に知らせないといけないと思い、脚にゲートルを巻き地下足袋を履いて走り始めた。父は三菱重工業長崎造船所の外業部長をしていた。その何年か前には艤装工場長として戦艦武蔵の艤装を担当していた。
 その父に知らせる為に走り始めたはいいが、造船所は長崎港の対岸にあるので市営の船で渡らなくてはならない。 だが、もしかしたら船は動いていないかもしれないと思い、稲佐橋経由で遠回りして行くしかないと考えた。自宅(上筑後町3番地)から小川町、船津 町、恵比寿町を走っているとき、地下足袋の底から釘が足の裏に刺さった。すごく痛かっ たが思い切り引き抜いてそのまま走り出した。あちこちで家が燃えている。消火を手伝っ てくれと言われたが、こちらもそれどころではない。断って走りに走った。長崎駅前に出た。駅舎はまだ燃えていなかった。駅の右側にあったジャパン・ツーリスト・ビユーロー の看板と2階部分が燃えはじめていた。
 更に走って行くと八千代町のガスタンクがある。タンクはまだ破裂していなかったが、 傍にコークスが山のように積んであり、それが赤々と燃えている。傍を通らないと稲佐橋へは行けない。持ってきていた防空頭巾をコークスがある右側に構えて熱いのを我慢しながら通った。それから先は正に地獄。馬が死んでいる、電車が焼けて止まっている、人が 死んでいる。道路もハッキリしない。後で考えれば当然のことで、爆心地の方向に進もう としていたのだ。それ以上進むことを諦め、引き返すことにした。引き返すには、また燃えているコークスの火の山の傍を通り抜けないといけない。今度は防空頭巾を左側に構えて通り抜けホッとした。
 帰りには、興善町にある親戚の家に寄った。どこかに避難しているのか、誰もいなかっ た (翌日に行った時には、完全に焼けていた) ので、やむなく一旦家へ帰った。 心配は駅の方からの火が延びて、こっちまで燃えてこないかということだった。ふと地面を見ると所々ギラギラ道路が光っている。何だろうと思ってその場所まで行って上を見 ると太陽が見える。一寸はずれると太陽は見えない。ということは、火事の煙や爆風によ る塵埃、それに原爆で出来た雲に覆われて地面は全て茶色になっているので、煙や雲の切 れ間から直射日光が当たっているところが異常に光って見えていたのであった。まさしく 我々はきのこ雲の下にいたのである。(この現象は戦後今まで、自然現象として見たこと がない。似た様な現象は木漏れ日であろう。貴重な体験であった)。 駅に近い下筑後町の方を見るとドンドン火の手が上がっている。類焼して来はしないか 心配になってきた。母や弟妹たちを安全な所に避難させた方がいいと思い、火の手の反対の方向に行くように2歳違いの妹に言って避難させた。夕方になって姉が夕食を作ろうと いうのでジャガイモを入れていた鍋を七輪にかけていた所へ父が帰ってきた。父は私に何をしているかと聞いたので、ジャガイモを煮てると答えた。父はこれを聞いて、私は落ちついているなと感じて安心したそうだ。
 下筑後町の方の火は相変わらず凄かったが、うちは焼けずに済んだ。それは何ヵ月か前に強制疎開で家を壊して空き地を作っていたからである。強制疎開の対象となった家は壊されて非常に気の毒だったが、多くの家が焼け残ったのはその強制疎開で空いた土地が類焼を防いでくれたお陰である。
 夕方になったら工場への出勤の時間である。こんな状態だから出勤どころではないが、 一応会社には連絡しようと思い戸町まで歩いて行くしかないと思って出掛けた。そしたら大浦付近で朝勤のグループが帰ってきているのに会った。夜勤の仕事はどうなるのか聞いたら当分休みだということであった。
 家に帰って暫く休んでいると、凄い姿をした人達が立山の方から下りてくる。この人達 は一体どうしたのだろうと不思議に思った。顔は火傷で真っ赤。体は焼けただれた黒い皮膚が胸から腹の方へぷら下がっている。寄ると臭い。とても気味が悪く見て居られない。 その人達は爆心地付近から金比羅山を越えて逃れて来た人達であった。きっと水が欲しかっただろう。彼らが近づいて来ると気味が悪く怖いので逃げたくなる。近所の大人の人々は水を杓(ひしゃく)に入れて飲ませていた。私は水を飲ませる勇気もない、情けない未だ1 5 歳の少年だったのだ。これが今でも取り返しのつかない後悔として心の底に残っている。 勿論、水を飲ませて上げたにしてもその人達は原爆症のため、いずれは亡くなられたであろうが……。
 この頃になると浦上地区は酷い被害を受けていることが分かつてきた。浦上には伯父、 伯母が住んでいる。無事であればいいがと思うがその安否は知る由もない。生きていれば 連絡があるだろうと一縷の期待があるだけであった。
 夕方になると何処からの支援か分からないが、大きな握り飯の配給があった。当時、米の飯にはなかなかお目に掛かることが出来なかったものであるが、それが配給されたことは非常に嬉しかった。一度に全部食べてしまうのは勿体ないと思い残しておいたら翌日に なると夏のこと故、段々臭くなってきた。寂しかった。
 伯父・伯母からは何の連絡もないということは生存の望みは少ないと思い、2・3日後、姉たちと浦上の方へ行って見ることにした。途中で臭い匂いがすると思ったら死体があった。 浦上川の支流、下の川には沢山の死体があった。爆心地では原爆が炸裂したら瞬時に火の海になっただろう。川の中に逃げようと思うのは当然のことだったろう。行水しているような死体があった。水に浸かっているところは白い肌であったが、水から出ている部分はま っ黒こげ。下半身の衣類はどうしたのか。自分で脱いだのか、爆風で吹き飛ばされたのか。 そこで命が尽きてしまったのだろう。防火用水に頭を突っ込んで熱さを避けようとしてこ と切れた死体もあった。このような状態だから、伯父・伯母の生存は無いと考えてせめて 遺骨でもと思い、瓦礫の中から家があったと思われる場所に狙いをつけ、骨を探した。な かなか見つからなかった。どれくらいの時間が経っただろうか。やっと2体の骨を見つけた。2体の骨があった場所は少し離れていた。一緒に抱き合う暇も無かったのか。後で想定された爆心地からは、100メートル位しか離れていなかった。その遺骨自体も伯父・ 伯母の骨だとも確認することも出来ないままである。
 その後、伯父・伯母の遺品が爆心地近くの横穴式防空壕に保存しであると言うことを聴き、姉と一緒に大八車を引いて遺品を受け取りに行った。その後も何回か爆心地付近へ行ったと思う。この事が後日の心配事に繋がる。
 原爆直後は元気であっても、爆心地近くに何回も入った人は後から髪の毛が抜けたり、 吐き気がしたり、火傷が化膿したりして死んでいくという状況が発生した。それも第1期、 第2期と纏まって死んでいく。私も何れ第5・6期頃に該当して体がおかしくなって来るのではと気になっていたが、幸いにしてそれは杞憂に終わり現在まで生き延びている。
 走り回った一日も暮れ、救援の握り飯を食べ、近所の人達と今日一日のことなど話してい た。話のなかに今日落ちたのは原子爆弾だと言うことを聞いた。そうこうしているうちに 爆音が聞こえてきた。見上げると浦上の方からこちらの方に向かつて飛んできている。嫌な感じがしている時にその飛行機が何かを投下した。飛行機の高度・速度からみると我々のいるところが着弾点になる可能性が高い。これはいけないと思い、防空壕の方へ走ろう とした。一緒にいた近所の人も同じ気持ちで走ろうと思ったらしい。ところが、体が動かない。走ろうとしても足が動かない。腰が抜けたのである。這うようにしてやっと防空壕にたどり着いた。一緒にいた人達も同様であった。
 前述のB25の36機編隊の時は同じような状態だったが着弾点を良く予測できたため 落ちついていられたのに、今度の場合は夕暮れだったし、原爆被爆直後のことで恐怖心が 強かったから慌てたのかもしれない。結局これが何だったかよく分からないが照明弾だったように思われる。日本軍の飛行機かアメリカ軍の飛行機か分からない。原爆の被害状況 を撮りにきたのか。

 3.その他

 (1) 原爆後遺症
 前にも書いたように、私は原爆被弾時、上半身裸で原爆の破裂をこの眼で見ているし、 その後、伯父・伯母の遺骨を拾いに爆心地に行っているし、伯父・伯母の遺品を受け取りに何回も爆心地近くにも行っているし、意識はしなくても死の灰の影響を受け、どれくら いの放射能を浴びているか分からない。
 一度だけドキッとしたことがある。それはある時、頭を洗ったら髪の毛がゴソッと抜けたことがあった。「アッ、とうとうきたか」と一瞬絶望的になった。しかし、その後、何ともなく治まった。そのあとは幸いにして戦後6 0年の今まで健康を維持している。だが、いつなんどき、原爆症になるか分からない不安は未だに消えない。

 (2) 原爆とラジオ
 原爆が落ちた時、スイッチを入れていたラジオは真空管がいかれたのか受信できなくな り、スイッチを入れていなかったラジオは壊れていなかった。少なくともうちのラジオは スイッチを入れていなかったので壊れていなかった。そのお陰で8月1 5日正午の玉音放送を聞くことができた。「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」。昭和天皇の御心は如何ば かりだったろう。

 (3) 姉のこと
 姉とは年齢が6歳違う。私が学徒動員中に時局が逼迫した折から、予科練(甲種飛行予科練習生ー海軍)の募集の案内があった。そのうちどこからか血で願書を書けば必ず合格するという噂が聞こえてきた。私も願書を貰って血で願書を書いた。それを姉に見つかっ た。そこで姉は「お国に尽くす道は軍人になるだけではない。ほかに尽くす道がある」と言って願書を破ってしまった。その時、予科練に行っていたらどうなっていたか。

 (4) デマ
 こんな災難のあとにはデマがつきものだが、原爆の後は7 0年、草木も生えぬという噂が飛んだ。私はこれは全くのでたらめだということを自然の現象の中で確認した。8月のうちに、東家の墓地があった聖徳寺(井樋の口)には臭い雑草が沢山生えていたし、うちの庭ではコオロギも鳴いていた。

 (5) 爆発の色
 先に、原爆が爆発した時、写真を撮るときのマグネシュームのようだったと書いた。 これは私の感じだが、原爆が炸裂した「ピカッー」の光の色が何色に見えたかによって 体に受ける影響が違うようだ。紫色・青色系に見えた人は体に受けた影響が大きい様で、 白からオレンジ色に見えた人はそれが少ない様だ。近所の小母さんは「格子の隙間から、 紫色の火の玉が飛んできて腕に当たった所が火傷になった」と言っていた。 また、ある女性は、今まで喋っていたのに急に喋らなくなったので近づいて見たら死んでいた。胸の辺りの皮膚が黒くなっていたと言う話も聞いた。恐らく紫色の光線を受けて いたと,思われる。私は爆発の色が白・オレンジ色に見えたから健康に過ごして来られた様に思われる。

 (6) 山王神社の一本足の鳥居
 爆心地から少し離れた所に山王神社というお宮があったが、そこの鳥居は物凄い爆風にもめげず、一本足になって立っていた。鳥居職人のバランスをとる技術に敬服するばかりである。
       

 (7) 大学病院の煙突
 爆心地近くで被爆後目立った物として大学病院の煙突がある。2本立っていたが、爆風に負けず立っていた。1本は真っ直ぐ、もう1本は「くの字」のように途中で曲がっていた。

 あとがき
 長崎市の町名はその当時の名称を使った。長崎を離れて4 0年以上経っているので私の 記憶も疑わしいし、区画整理で町名も変わっているだろうからである。ご容赦頂きたい。      
                                  
平成20年6月10日
                                         以 上

 (編者注:
このページはH20.9.9毎日新聞「ナガサキ平和リレー」で紹介されました。




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更新日:2008年9月17日
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