『耶 馬 溪』
霊峰英彦山(1、200m)に源を発し、幾多の支流を集めて福岡・大分県境を東へ流れ、やがて周防灘に注ぐ山国川の流れが流域の溶岩台地(旧阿蘇火山の北限の溶岩台地)を刻み、長年の風雨によって造形された奇岩、怪石がそびえたつ秀峰群と調和してまれに見る景勝を造りだした。
それは文政元年(1818年)ここを訪れた頼山陽が山国川流域の渓谷美に驚嘆して耶馬溪と名づけたことにより、天下の名勝として広く知られるところとなる。幕末の文豪、詩人として有名な頼山陽が九州(肥前・肥後)に遊学し、天領日田に広瀬淡窓をたずねた後、豊後森(玖珠町)より山国谷を探勝して「耶馬溪をめぐる詩」 を発表した。
山陽が中国の奇勝地として漢詩にうたわれる耶馬溪はかくあらんと名づけたといわれている。古くは山国谷、城井谷といわれて来た渓谷地に新しく耶馬溪という地名がうまれたわけです。しかし耶馬溪という地名が全国的になったのは大正時代に入ってからである。
大正2年、中津一洞門(青の洞門入口)間14.3Kmに最初の耶馬渓鉄道(私鉄)が走り、翌年には柿坂(深耶馬渓入口)まで延長され、同13年に終点守実まで全長36Kmの全線が開通した。交通不便であった山国谷の人々に「耶鉄」と呼ばれて親しまれた。当時耶馬溪が「名勝耶馬溪」として新日本三景の一つに選ばれたこともあって多くの観光客を呼び込み「耶馬溪」 が地名として定着して来た。
私の本籍地名は明治までの「東城井村」が大正に入って「東耶馬渓村」と改称し、現在では4村合併で「本耶馬溪町」となっている。
近代日本の先覚者となった福沢諭吉が3歳から21歳までの青年時代を過ごした福沢旧邸のある豊前城下町中津市より16Km山国川をさかのぼると、耶馬溪の玄関口で史跡青の洞門があり、そこから支流跡田川の上流2Kmの険しい岩山の頂上付近に羅漢寺がある。羅漢寺は鎌倉時代に建立された禅門の霊場として有名であり、ともに四季を通じて訪れる人の絶えないところである。
大正8年、菊池 寛が青の洞門をモチ―フに使った小説「恩讐の彼方に」を発表して以来青の洞門を見物する観光客も急増した。さらに、耶鉄の開通で交通の便も良くなったことにより、大正年間の耶馬溪は観光客めあての多数の旅館が次々と建ち並ぶ最盛期の観光ブーム状態にあった。本来耶馬渓鉄道は、木材・金鉱石の輸送を目的として近隣資産家の合資により敷設された。効率の悪い山国川のイカダ流しに頼っていた木材が貨車で運ばれるようになり、中津駅及び耶鉄各停車場近郊は製材所や木材市場が多数設置されて活況を呈していた。終点守実近郊に明治末期に発見された草本金山の金鉱石は20年間位の短期であったが中津経由で日鉱佐賀関まで運送された。
昭和のはじめの不況期に耶鉄も一時経営危機に陥ったものの、ガソリンカーの投入による輸送効率化と折からの日中、太平洋戦争特需による物資輸送の増加や金山の本格的操業による金鉱石増、戦後の乗客数の増加などにより昭和30年頃には再び黄金時代を迎えた。その頃には「新緑やばけい号」「紅葉やばけい号」など国鉄門司港発・耶馬溪線乗り入れの直通列車も運行されていた。昭和20年4月〜昭和26年3月までの6年間、私も通学生として利用させて貰った。今でも多くの思い出が走馬灯の如く浮かび懐かしい。
しかし、高度経済成長期を過ぎた頃から耶鉄も各地のローカル線が辿ったのと同じ道をとることとなった。道路整備と自動車の普及に伴う鉄道輸送の減少、農山村の過疎化などにより、昭和50年9月最後のディーゼルカーが走ったあと62年間にわたる使命を終え全線が廃止になった。
現在では中津、日田より観光客、一般客用に定期、臨時のバス路線が整備され以前より便利になっている。それでも耶鉄が第3セクターとしてでも生き残っておれば違った趣の耶馬溪が味わえたのにと残念がりつつ懐旧するのは私一人ではないでしょう。
一方、旧耶馬溪鉄道敷跡は整備されて全長36Kmのサイクリングロード・メイプル耶馬サイクルラインとして復活している。 路線の長さでは西日本一の規模を誇り、目の前に現れてくる奇岩・奇峰の景勝や山国川の清流などを楽しみながら走るサイクリングは実に壮快であり、世代を超えて多くの人がさわやかな汗を流しにやって来るようである。
紅葉の秋、柿坂ターミナルを過ぎて銀輪が鉄橋にさしかかるとき、ついひと昔前までこの上を走った耶鉄に思いを馳せる人も少なくないだろう。 柿坂から山国川の支流山移川に沿って渓合いを進むと深耶馬溪の中心「一目八景」に着く。ここは耶馬溪一の紅葉の名所で、展望台より眺める群猿山、夫婦岩、烏帽子台など奇勝八景の美しさはまさに天下一品である。頼山陽が詩中で絶賛し、しばし筆をとめたという奇峰もここから望める。
山国川には多くの橋梁が架り、景勝耶馬溪路に情趣を添える。中でも石橋の耶馬渓橋・羅漢寺橋・馬渓橋は「耶馬三橋」と呼ばれ、ひときわ優雅な姿を川面に映している。長崎ではじまったアーチ橋が肥後、豊後を経て、大正時代に山国谷に本格的石造アーチ橋を出現させた。 耶馬溪入口にある青の洞門のやや下流 に架かる耶馬溪橋は全長116mに及ぶわが国唯一といわれる八連アーチの石橋で大正12年の架橋。 この地域ではオランダ橋とよばれている。 私の6年間の小学校通学にいつもかよっていた橋である。
青の洞門から上流1Kmばかりのところに架かる2番目の橋、羅漢寺橋は大正9年の架橋で、一つの径間が27mもある雄大でしかも堂々たる三連アーチ橋。耶鉄羅漢寺駅前にあったので当時、羅漢寺参拝者で幅湊した程に通行者で賑わっていた。(私の生家はこの橋のたもとにある) さらに上流5Kmぐらいのところにあるが3番目の馬渓橋。大正12年の架橋で全長82mの五連橋。堅固な石組は今でも人々の日常生活に欠かせない存在である。 これらの石橋の架かる山国川一帯の水景は一際美しく、足を止めると頬を通り過ぎる風が心地よい。
耶馬溪は戦後、「耶馬・日田・英彦山国定公園」に選定された。その後耶馬溪の地名区域がひろがり、現在の観光案内地図中では耶馬渓・深耶馬溪のほかに「奥耶馬渓」「裏耶馬渓」「津民耶馬溪」が追加記載されている。それぞれは少しずつ趣を変えた奇勝で訪れる観光客を楽しませている。特に皆様に推薦するのは、秋の紅葉シーズンに深耶馬溪「一目八景」より渓川にそって上流2Km錦雲峡に至る渓谷の探勝である。澄み切った水が苔むした奇岩石をかむように流れる渓谷、もみじの大木が渓谷を覆いかくす程に群生し、紅葉の深紅の色彩は天下一品、まさに日本一の紅葉の名所だと疑わない。是非とも一度「秋の耶馬溪探勝」に足を伸ばして下さい。
『青 の 洞 門』
山国川本流に真に直角にそそり立つ絶壁の競秀峰の岩々。その裾の部分に川の流れに沿うように掘られた一本の隧道。古くから青という部落にあるので、一般に「青の洞門」と呼ばれている。現在地名は本耶馬溪町大字曾木字青となっている。ここには時の流れを超えて後世に語り継がれる物語がある。「江戸で人をあやめた禅海が、諸国巡礼の途中、この地で鎖度し難所に苦しさ人々を見て隧道開さくを決意。風雪にも、
嘲笑にも屈することなく、大岩盤に挑むこと30年ついに洞門を完成させる」。 大正8年、菊池寛が小説「恩讐の彼方に」の主人公に使った僧禅海の物語である。菊池寛は一度も耶馬溪・青の洞門を訪れずに地元の観光業者が書いた観光案内記を種本として小説にしたものである。
―鎖渡しの難所・実は日本最初のダム公害―
青の洞門は江戸時代日田天領と中津藩領との領界にあり、すぐ下流にある荒瀬井堰は時の中津藩主 小笠原長胤が中津平野に新田開発の為に灌漑用水を引く取水口として元禄2年(1689年)に築いたもの。ところがこの井堰の完成により競秀峰の下を流れる山国川の水位が増し現在の青の洞門の下にあった道が水没してしまったのだ。当時、水没した道は天領日田と中津を結ぶ街道の一部をなしていた幹線道であり、 この地方には古くから「ウサ・ラカ・ヒコ」という言葉があるように宇佐八幡、羅漢寺、英彦山への参詣が盛んで、そのための道でもあった。このため、人々は断崖の中腹に設けられた鎖渡しの桟道を通らなければならなくなったのである。ところがその桟道は、崖腹につるした数条の鉄の鎖を伝って通る狭い道だったので、行き違いざまに道を踏みはずし川の中に落ち、死傷する人馬も少なくなかったという。
一漂泊の僧・禅海、起業家の先駆者、最古の有料道路一
江戸浅草の住人(先祖は越後・高田藩の出身で福原姓を名のる)であった禅海は、亨保のはじめ頃、両親に死別、無常を感じた彼は回国行者となって漂白の旅をはじめる。中仙道へて、大阪から四国霊場をめぐり別府へ上陸。湯布院において出家得度し禅海の法名をいただき、その後再び回国行脚の旅へ出ている。宇佐八幡をへて羅漢寺への道を辿るうち、鎖渡しの難所で転落死する惨事を目撃。一大決心(大誓願)をし、洞門開さくの難事業に取りかかったといわれる。亨保5年(1720年)、青の断崖に洞門を掘る許可を中津藩に求めてきている。はじめに洞門開さくの趣旨を村々に説いて図ったものの、あまりにも現実離れした計画に人々は耳をかすどころか、狂人扱いされたといわれている。このため、禅海は托鉢に廻り資金をこしらえ、一人で鎚とノミをふるい堀りはじめていたようである。(この鎚とノミは現存し禅海堂に記念品として展示されている)
やがて時が流れ、北側の大岸壁に奇跡の穴道が開くうちに、禅海の鉄石心が人々の心を動かした。穴掘り手伝い、すすんで石塊れを運ぶもの、喜んで寄付をするものも出てきた。時の藩主も彼の意を汲み、九州諸大名への寄付金の募集を許可している。後に禅海が洞門完成を記念して石工に掘らせたといわれる地蔵菩薩(禅海地蔵)像の移転のさいに、その台座の中から発見された禅海直筆の板書きによると、この洞門は、中津御領内並びに天領の寄付でつくられたものであることが記されている。この板書きは現在の簿記的に寄付金及び完成後徴収した通行料、石工及び村人への労賃支払の明細が記されていた。
こうして資金を確保され、長州から名工岸野平右衛門を石工頭として雇っている。そして寛延3年(1750年)禅海が孤独な第一鎚を打ちおろしてから実に30年の歳月を経て、ついに全長342m、高さ3m、幅2.5mの洞門が完成したのである。開通後一人4文、牛馬8文の通行料を徴する日本初の有料道路にしている。僧禅海は公害元の中津藩にまず寄付を求め、開さくが進みだすと技術者(石工)、労務者(村人)を集めて完成させ開通後は有料道路にして資産を蓄える等、政治力も経済力も経営手腕もある起業人であったといえる。洞門完成から5年後の宝暦5年(1755年)、田畑1町歩余りと銀2貫匁ほか蓄財のほとんどを羅漢寺へ寄進している。大事業を成した禅海はそれから19年後安永3年(1774年)88歳の長寿を全うして88歳で、羅漢寺のある山ろくの禅海堂にて喪くなっている。
―エピローグー
小説「恩讐の彼方に」は、洞門の開さくと仇討話を結び合わせ恩讐を超えたヒューマニズムをうたいあげた名作として反響を呼び、大正末の国定教科書に掲載されて広く知られるようになった。これで青の洞門と禅海を一躍有名にしたが、仇討話については、真偽のほどは定かではない。禅海の88年の生涯のうち後半生は洞門を掘るために費やされているが前半生は明らかではない。人々はそんな禅海がこの地で自分の利益にもならない難事業に半生を捧げた真の理由がわからなかった為、前半生に偉業を成させるに足る必然を見い出したく、当時あった仇討話と結び付けたのであらう。ことの真実は悠久の時の流れをみつめてきた山国川と競秀峰だけしか知るものはない。なお、現在の洞門は当時から大きく変化(拡幅工事は明治になってから3回にわたっておこなわれ、明治40年にはほぼ現在に近い形状に完成)しており、今でも禅海が掘ったと伝えられる部分の一部が保存されており、壁面や明りとりの窓には禅海のノミの跡がのこっている。
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