近頃思うこと        舟岡 正男
1.「老後」という言葉について
 
老後という言葉は、理解しにくい言葉である。
会社勤めの人が、定年間近になると話題となる「老後をどうすごそうか?」という老後は、定年後のことを言っているようである。
 以前、九十歳半ばをゆうに越えたお婆さんが、亡夫の遺族年金や息子から貰う小遣いを、せっせと貯金しているので、「お婆さん、そんなにお金を貯めてどうするんですか?」と聞いたら、「老後の為です」と答えたそうで、このお婆さんの老後は、一体いつのことを指すのかといえば、老後=自分の死後と考えておかしくない。
 「戦中・戦後」というと言葉がある。「戦中」とは戦争している最中であり、「戦後」とは戦争が終わった後を指すことは明白である。
「老中・老後」に当てはめると、「老中」は老いの最中であり、「老後」は老の終わった後となる。老の終わった後即ち死後と考えると、前出のお婆さんの「老後の為」の老後の意味がよく理解できる。
 九十歳であろうと百歳であろうと、生きている間は「老中」であって老後ではないのである。
 広辞苑に昔の律令制では、「老」(という役職)を61歳〜65歳を指したとある。すると老後とはその後65歳以上を指すのかというと、律令制にはそのことは記述が無い。
 同じ広辞苑の中に、「老」とは年寄ること又年寄った人であり、「老後」とは、年老いた後としか出ていない。  この年老いた後が曲者で、年老いた後は、老中であるべきと考える。
昔の律令制の「老」が今の老人の老と同じ字で使われているので、誤解が生まれるのである。 江戸幕府でも年齢は若いのに、「老中職」があり、最高職位を「大老」と称した。 相撲の世界にも、年を取ってないのに「年寄り」という呼び名がある。
さて、九十歳であろうと百歳であろうと、生きている間は「老中」である、と前述したが、そう考えると「老後=死後」であり納得できる。
だから、「老後」という言葉は不要となり、いわゆる「死語」にすべきである。今後は、61歳〜70歳は「初老」、71歳〜80歳は「中老」、81歳以上は「大老」とでも呼んで、死んだら後は、「死後」で済ませばよいわけで、曖昧な「老後」という言葉は使う必要は無いと考えるが、いかがなものか?



2.気力は体力から
 
会社を定年退職して15年になるが、第2の勤めの八王子市民センター(市の外郭団体のコミュニティ振興会)の定年65歳と掛け持ちで非常勤の日本科学技術連盟嘱託講師(品質管理―新QC七つ道具)の定年70歳は満齢の年の年度末まで(官公庁並み)のため4月3日生まれの私は、会社は満60歳の4月末までであったが、後は満66歳になる3日前までと、満71歳になる3日前までで、第三の定年から5年しか経っておらず、完全な無職になってから余り長いという実感が無い。
「健全なる精神は、健全なる肉体に宿る」という諺があるように気持ちが健全であるためには、体が健全でなければならない。「気力は体力から」をモットーに、会社時代から足腰を」鍛えるために、階段は一段飛ばし、エレベーター・エスカレーターの時代になっても、極力乗らず階段を使う、エスカレーターしかなく階段が見当たらないときは、エスカレーターの右側を歩いて上り下りするように、心がけて来て現在も実行している、 体が健康であれば色々のことに挑戦したい意欲が湧いて来る。
会社在籍当時に始めた茶道(表千家)で、扱う抹茶茶碗を自分で作ってみたいと、退職後、陶芸教室に入り、数多くの茶碗や茶器を作った。 茶碗を作るとただ釉薬だけ掛けるにでなく、茶碗の胴に絵を描きたくなり、水墨画をかじり、1枚の紙に絵を描くと今度は落款を押したくなり、篆刻を始めた。
 また、手先の運動にと、市の寿大学(60歳以上対象の種々の教室)の一つの手品の教室で学び、老人ホーム、デイサービス、市内の老人会で披露したレパートリーも80位になる。  手先だけではいけないと、社交ダンスを習って7年近くになる。(週1回2時間)  他に高校時代に混声合唱を始めて、県の学生音楽コンクールで2年連続優勝し2回目のときは、指揮者を勤めた。
会社でも、コーラス班を立ち上げ、昼休みのひと時を楽しんだのが病みつきで、八王子フィルハーモニーが第九を演奏するために、公募した合唱団に入り、既に第九は10回近く歌っている。 ドイツのザクセン州ケムニッツ市のアマチュアオーケストラとの2年毎の交流が8年も続いているが、2005年には、訪独が実現しザクセン州の首都ドレスデンのオペラハウスや、ケムニッツ市の公会堂でグノーの“荘厳ミサ”など現地の合唱団と共演できた。
 自治会の健康マージャンで、指先と脳のトレーニングを始めて3年になる。
我が家の、居間は応接セットやピアノは隣の和室に移動し、自転車漕ぎ、スッテッパーぶら下がり健康器、腹筋台、バランスボール、それにマッサージ機とさながらジムのようである。 空いたスペースで、かみさんの太極拳や小生の社交ダンスの練習場になっている。 太極拳を見ていると、もう少し歳をとったら社交ダンスから太極拳に転向しようかと思っている、
 同窓会の仲間とのゴルフコンペも25回を超えたが、2回優勝出来た。皆元気で80歳までは続けようと息巻いている



3.「再発防止」は許されない
 最
近の企業や官公庁の不祥事で、責任者が一人で十分なのに3人も5人も出て来て、頭を下げて言うことが必ずと言ってよい位「再発防止をします」である。
 しかし、その企業や官公庁では初めての不祥事であり原因を検討して再発を防止するというのは、理にかなっているように聞こえるが、「再発防止」という言葉には、甘えの構図がある「1度目は仕方ない2度目(再発)を防止すれがよい」といっているようである。 しかし、色々の不祥事(事故、汚職、談合)は、他の企業や官公庁などでいくらでも事例がある。これらを他山の石として自社や自省庁、自公共団体では、1度でも、問題を起こさないと事前に対策をしてあれば、1度目は仕方ない2度目(再発)を防止すれがよい」というような気にはならないはずである。
 だのに、昔の盗賊石川五右衛門の辞世の歌「石川や濱の真砂は尽きるとも世に盗賊の種は尽きまじ」ではないが、「世に不祥事(事故、汚職、談合)の種は尽きまじ」である、 他の企業や官公庁などでいくらでもある事例を「対岸の火事」視して、他所でも再発防止だから、自分のところも、1度問題を起こしたら、再発防止でいいんだという甘い考え方が、世の中に浸透してしまっているように思えてならない。
 「再発防止」は許されない、1度目から不祥事(事故、汚職、談合)は起こしてはならないのである。特に、人命にかかわる事故、火事や大惨事になる機械器具の不具合など、もっと消費者、利用者の立場に立った使用方法の検討が十分にされていれば、1度目から事故など起こさず、「再発防止」などということは、言わなく
済むのである。
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