メルハバ(こんにちは)
     トルコの旅
 


2010年5月17日〜26日


画(水彩)と文  大曽根 悦朗


 旅行記を書き出そうと思い立つまでに、すでに二ヶ月が過ぎていた。落ち着いて思いを集中させられない厳しい状況に置かれていた。それでも何とか、絵の方は細切れ時間の中で、ボスポラス海峡の夕日、遺跡が沈んでいるパムッカレの温泉プール、穴ぼこだらけのカッパドキア渓谷の三枚だけは何とか描いてみた。絵が描ければ、筆も進むだろうと期待していたがダメだった。絵の出来映えの方も満足できず、結局描き直さなくてはならなかった。
 トルコ旅行の定番は、イスタンブールを出発して、エーゲ海地方の遺跡巡りと石灰棚を歩いて、中央アナトリアの奇岩群カッパドキアを歩き廻り、最後に西洋と東洋の文化が混在するイスタンブールを観光するルートである。決して、南東地区や東地区は含まれていない。観光スポットが少ないとも思われないので、治安の問題があるのかと想像するだけだ。しかし、トルコが持つ不思議さは、イスラム教とキリスト教が並存できることを歴史が証明しているところだ。なんて魅惑的なことか。
 「アラビアのロレンス」の映画で、強大で広大なオスマントルコ帝国が第一次世界大戦で敗れる戦闘シーンでは、弛んだ軍隊としてえがかれていたのを覚えている。
 その敗戦から立ち上がったケマル・アタチュルク率いる革命軍が、新制トルコを築いたのだ。今では、国の父として尊崇されている。アラビア文字を捨て、アルファベットに近い文字を採用。そのお陰で、我々でも何となく地名など読める。男女平等、教育機会の均等。服装は自由、毎日お祈りをしなくてもよいなどの政教分離を強力に推進した。どうして、こんなことが可能になったのだろうか? 周りのイスラム教国からはどのように思われているのかと謎が深い。もしかして、謎解きが出来るのではないかと別の興味も尽きない。


  いざ、未知のトルコ

 五月十六日(土)、愛犬の顎の手術結果を聞いてから、気持ちを残しながら家を出た。獣医さんに預けてあるのだから安心だと二人で慰めあった。それでも、飛行機に乗る頃には、旅行者の群れの渦に巻き込まれ、どうしても先の興味と期待に勝てなくなっていた。
 定刻通り、午後一時半成田を飛び立つと、十三時間でトルコのイスタンブールである。一番大事な予備知識として、手荷物や貴重品の管理についてさんざん聞かされていた。
 トルコは、歴史的な和歌山沖の海難事故のお陰で親日国である。トルコの教科書に載っているとのことだ。日本語で話しかけられるが、あまり打ち解けてはいけないとか。親日国と荷物や貴重品とは別物であるらしい。
 イスタンブールのアタチュルク空港に着いた時刻は、現地時間で午後八時。少し変なアクセントの流ちょうな日本語を操る小柄な横周りの立派なトルコ女性ガイドに迎えられた。翌日は、短めのシャツは臍だしルックで評判になっていた。そこにも、トルコの謎が含まれていそうだ。イスラム世界でどうして臍だしルックが許されるのか? トルコが歩んできた歴史の経緯があったのは、後で少し分かったような気がしている。
 まだ、辺りは夕焼けの薄暮といった雰囲気である。先ずは明日の出発に備えて、空港内のホテルでゆっくり寝るだけだ。



  トロイの遺跡

 今日は、史実で有名な三百四十キロ先の「トロイ」へ出発。五時間以上の移動になる。新型のデラックスバスは、座席が一列三席でゆったりしているのは助かる。市街を外れると、道路は広く渋滞はないが、至る所で工事をしている。しかし、朝が早いのか作業員は見かけない。信号機で止まるよりは、工事中で道幅が狭くなることで、スピードが落ちる方が多い。
 イスラム圏として、トルコ郊外の一般の家がどうなっているのか興味があった。しかし、だいたい同じ作りになっていて少しガッカリした。屋根はオレンジ色の煉瓦造り、バーベキュー用の煙突があり、集合住宅が圧倒的に多い。外壁も少し褪せたような白壁。どう見ても個性的ではない。
 それでも一時間も走ると人家は途切れ、丘陵地帯を縫って延びている道路からは、どこまでも畑が続いている。あらためて、トルコが農業国であるのを悟った。聞くところによると、食料自給率は百パーセント近いというのも納得できるような気がする。そう思うと、風景画のような景色の中を、揺られて行くのも心地良い。バスの車窓からの写真は、記録として残せばよいと気軽に考えることに切り替えた。
 最初の休憩所が近くなってきた。ガイドさんからたたき込まれたのは、『チャイ』の講釈である。
「美味しいよ、トルコ人はよく飲むよ、有名な店だよ……」
 トイレをすますと、一斉に喫茶コーナーに集まってくる。小さなグラスに注がれている液体は、紅茶と同じ色だ。違いは、我々が親しんでいる紅茶の香りはしない。むしろ、番茶といったところだ。これ以後、自分では『チャイ』を一度も頼まなかった。ビールやワインばかり飲んでいた。
 休憩所を出てからは、人家は全く見あたらない。なだらかな丘陵地帯は、よく手入れがされていて、豊かな緑が連なっている。近くにはそれほど高い山も見あたらない。
 昼食は、エーゲ海に続くダーダネルス海峡を目の前にした絶景レストラン。鯖の開きを油で揚げたものは、油こく完食するのはきつい。残骸をあちこちで見かける。屋台売りのピスタチオで口直しして油っぽさはなんとか忘れた。

遺跡レンガに咲くポピー ダーダネルス海峡をフェリーで渡ればいよいよ遺跡地帯に入っていく。何の変哲もない丘陵地帯は、長い歴史、戦いの檜舞台になってきた。特に、油断大敵の見本みたいな『トロイの木馬』は、世界史で必ず学ぶ。詳しい歴史的背景は忘れてしまったが、敵に送られた木馬に隠れていた兵士に城門を破られてトロイは滅んでしまう話だ。『勝者の奢り』を諫めた話として伝わっている。人間、そうは言っても、必ず勝者は奢るようにできているのだから、面白。
 現場に立ってみて、初めてトロイが単なる一時代だけの遺跡ではなく、遺跡の後に遺跡が九層にも重なった遺跡群である。エーゲ海を挟んで、ギリシャやローマに近い地が紀元前十世紀頃から気が遠くなるほどの長い年月、戦いの舞台になってきた。泥のような煉瓦を積んだ城壁は風雨に崩れかけている。その煉瓦の隙間に、ポピーの花が厳しい環境に耐えている姿はそれだけで、一服の絵になりそうだ。
 小さな丘から見える群青の海は、遙か遠くに後退してしまっている。今では、黒海と地中海の喉仏のような場所ではなくなって、歴史からトロイは完全に消えた。
 今晩の宿アイワルクは、百五十キロの先。エーゲ海岸の近くのホテルである。エーゲ海というだけで、何となくロマンティックな感じがする。今日からの朝食と夕食はバイキングスタイルですと言われて、来る前にみてきた観光雑誌の旨い物ページがちらつく。過去の経験で、期待すると必ずガッカリするという法則を思い出して、期待しないように言い聞かせていた。
 今では、全く覚えていないが、ほとんどの料理は香辛料がきつく、トマトケチャップたっぷりの野菜中心であったとしか覚えていない。日本の例に従って、海に近いのだからというのは当てはまらないらしい。経験則は正しかった。エーゲ海の朝
 夕食が終わった午後八時過ぎ、エーゲ海に沈みいく夕日を眺めて涼しい風に吹かれたのが一番贅沢なデザートであった。エーゲ海という響きは、青春という響きさえする。七十二歳の青春である。愛犬ボビーにはすまないが、すっかり頭から消えていた。

  遺跡巡り

 今日も天気が良さそうだ。はじめに立ち寄るところは、六十キロ先のベルガモン遺跡。既に六十キロが近いという感覚になっている。バスは斜面を縫うように続く道路を山の頂上に向かって登っていく。崩れかけたアクロポリスの神殿。何となく名前からはギリシャの臭いがしてくる。
 早速、「おはよう、安いよ……」の呼び込みに迎えられた。簡単なテント作りの店が道路沿いに並んでいる。山頂一体に広がった崩れかかった城壁、すりへった階段、彫刻の施された傷だらけの大理石の柱、大規模な円形劇場など。ここでも赤いポピーの花が、廃墟の壁や瓦礫にしっかりと根をおろしている。円形劇場の観覧席、その先には豆粒のような無数のオレンジ色の屋根が広がっていて、辺りには湿気の少ない空気が漂っている。
 アレキサンダー大王の遠征と関係があると言われたが、どう関係があったのか初めから覚えていない。それでも世界一の蔵書があった図書館としてを誇っていたらしい。パピルスの代わりに初めて羊皮紙が使われたとも伝えられている。
 自分では到底撮れないアングルや被写体で、十枚綴りの写真が日本円で五百円。直ぐに得した気分になって五百円硬貨を渡していた。

 当時の最新技術で作られた大規模な水道橋の遺跡を見ながら、山の麓のアスクレピオン(精神病院)へ移動する。町の中心街の歩道には、簡単なテーブルを囲んで、黒っぽい服の老人男性たちが座っている。何か異様な雰囲気がするが、歩道に溶け込んでいるとも言える。リタイアした人たちの社交の場になっているのだろう。ひなびた町でも同じような情景を良く見かけた。日本では絶対に見かけることはない。家の中に閉じこもるか、やたらに集団で動き回る日本人と較べて、自然で豊かな時間が流れているような気がする。
 社会科見学の小学生から、日本語で「こんにちわ!」、「写真を撮ってください!」などと盛んに声をかけられた。ふっくらとした健康的な笑顔が明るく、人なつこい。写真にもニコニコ、ワイワイと応えてくれる。これだけ感じの良い少年少女たちは、世界でも珍しいのではないかと思う。どうして日本人を見分けるのか聞いてみればよかったと今になって思っている。このふれ合は何処でも、ほのぼのとした豊かな気持ちを与えてくれた。最初の頃はどうしても構えてしまったが、最後にはこちらからも声が自然に出るようになっていた。トルコという国の暖かさは、何時までも続いて欲しいと願わずにはいられない。日本人が失いかけている暖かさである。もちろん、下心ある大人への警戒は必要ではある。
 特に、われわれ日本人に対して特別な感情があるのではないか。教科書にある海難事故と日本人の献身的な救助と援助を未だに忘れないで受け継いでいるのだ。そして、我々の先祖が持っていた暖かさ、寛容さそして熱い想いに感謝しないではいられない。
 周囲の伏流水は何千年も枯れることがなく、周りの山に降った雨水を集めて流れ出ているのだろうか。精神病院内を流れる水の音は、地下の病室に安らぎの音を響かせる。病室の天井には穴が開いていて、そこから医師と対話できるようになっている。当時、どうして精神病院が建てられたのか謎は残る。治る可能性のある病人だけが入院できる仕組みになっていた。治りそうもない病人でも切り捨てない現代的な考えからは、到底理解されないかもしれない。人知の届かない領域として、神仏に委ねられる考えが受け入れられていたのは、少し前の日本でも当たり前だったはずだ。あまりに進歩した技術で、神の領域をどんどん狭められている。それで、果たして人間は幸せになれるのだろうかと問い続けているような気がしてならない。管で生かし続ける治療はその事例の一つだと思う。
 昼食は、名物のドネル・ケバブ(ケバブは串の意味)。薄い肉を何枚も重ねて串に刺し、串を回転させながら焼き、周りからそいで食べるイメージは美味そうだ。早くもらいたいと群がっていたのも、おかわりの段になると閑散としている。旨みの少ないぱさぱさ肉は、売れ行きががた減りだ。
エフェソス遺跡回廊
 午後は、百九十キロ先の大規模な遺跡があるエフェソス。日差しは強いが空気が乾燥しているので助かる。テント作りの商店街の見慣れた売り込み風景が待っていた。特にエフェソスは入口と出口が違う回廊遺跡になっていて、屋敷や商店街や公衆施設が道沿いに配置されている。これだけまとまった大規模遺跡ではあるが、崩落したものを立てたり、組勝利の女神ニケみ立てたり、形を整えたり、位置を戻したりとかなり手が加えられているので、世界遺産としては認定されていない。
 遠方からもみえる大円形劇場の迫力、ナイキのデザインが取られている勝利の女神ニケの石版。水洗公衆トイレとして尻型の穴が並んでいて、その下を水が流れるようになっている。別に下水処理場があるわけでないので、行く先はどこなのだろうか。どうして拭く公共水洗トイレのかまでは考えつかない。野生のイチジクが自生していたがどうも適していない。子ども時代のふきの葉っぱを思い出していた。
 セルシウス図書館蹟、最近発見されたクレオパトラの妹の墓。賢い妹は、姉に殺されたと言うのは有名な話である。
 スマートな三毛猫が、石畳のくぼみのわずかな水を飲んでいる。ガイドが説明していて見物人がたかっているのに、全く怖がる様子もない。足型が浅く掘ってある石畳は、女郎屋の印だそうだ。餌をねだるわけでもない、どうして、何処で生活しているのか謎である。また、別の場所で見た犬たちも、平気で日陰の芝生で爆睡している情景にも出会った。トルコの不思議さ・魅力を別の角度から見たような気がしていた。
 午前中三時間遺跡巡り、午後二時間近くバスに乗り、日差しの強い中を三時間近く遺跡の凸凹道を歩くとかなり足が重くなっていた。呼び込みの誘い、「サムライ、日本人評判良いよ、目の保養になるよ……」などと呼ばれてもあまり気にもならなくなっていた。
 ここからほど遠くない、クサダシが今夜の宿。野菜中心のバイキング、慣れたというより、期待しないというところだ。早く、風呂でも入って横になりたい。

  白い棚田パムッカレ

 今日も朝から快晴。途中、山中の村に寄って石灰棚で有名なパムッカレへ移動する。私に、トルコで知っている所はどこかと聞かれれば、一にカッパドキアで、二に石灰棚であると答える。それだけ期待が膨らむ。真っ白な棚田を連想すると、裸足で歩いてみたいという欲求が沸いてくる。
 ところが出発すぐ、これから皮工房に寄りますとのお告げがあった。日程表の何処にも書いていないが、初めから組み込まれていた予定のコースだったのだ。フランスの有名な服飾メーカーにも卸していて、品物は安心だとの予備知識も与えられた。
 皮のファッションショーなど初めてなので、どのように進行するのか少しは興味があった。ここまで来れば刑場に引かれる羊の群れだ。
 司会者の流暢な日本語の冗句と強烈な音楽に合わせて、皮ジャケットやコートを着た美男美女のモデルの動きに引き込まれてしまう。最後の殺し文句は、記念にモデルさんとペアになって歩いてくださいだ。スカウトされた人は、脚光を浴びて颯爽と登場。確かに良い思い出である。ファッションショーのモデル経験などまったく無縁な人たちだろう。ひたすらモデル撮影カメラマンに徹していた。
 ショーが終わるといよいよ販売タイム。一着十万〜二十万円。こちらは、サッと見てサッと逃げてしまった。どうせ着ていく場所もあまりないのはわかっている。ところが、モデルにかり出された人は、結果的には買わされていた。特別な思い入れがあったのだろうか。司会者の目は確かである。後で買いそうな人をピックアップしていたのだ。こちらは、どうせ買いそうもないと見抜かれていたのだ。プロの目はたいしたものだ。隠れコースは、旅程には載っていないが、バス会社の余録なのだ。仕組まれたコースと思うと釈然としないが、トルコの皮の品質・手触りと売り込みの手の内を見せてくれたと思うと、諦めもつく。
シリンジェ村
 シリンジェ村へは、狭い山道をどんどん登っていく。村の見学と言われると、きっと特徴のある村に違いないと期待が沸いてくる。山の上に出ると、そこは土産物店などが並んでいる。店といっても木造の平屋か二階建てが多く、古びた感じの家を改造しただけの店が多い。道も自然の勾配に任せたもので結構アップダウンがある。あまり人工的でないのがいい。道の両サイドは魔除けの目玉、乾しイチジク、オリーブ石けん、布製の鞄、狭い地域に数十件の店が並んでいる。その上の山の斜面には民家がへばりついているといった感じだ。ここでも、先生に引率された賑やかで明るい小学生の一団と出会った。日本では廃れた社会科見学なのだろう。 
 町のメインストリートをザッと一周するのに、一時間もあれば十分。町中の店と違って、安さとごたごたと並んでいるのが面白い。田舎の雰囲気がする景色が無いかと探した。坂道の家、特徴のある家など絵に起こせないかと考えながらシャッターを押していた。
 唯一の本格的な石造りの建物とのガーデンは、ワインの試飲会用の舞台である。ザクロ、チェリー、ブドウの飲み比べ。結局、試飲販売だ。昼食は、谷間と山の斜面を吹き抜ける風が一品の戸外。急斜面に張り付いたようなオレンジ色の屋根が緑のキャンバスに浮き出して見え、斜面の下の方までブドウ畑が続いている。
 かつて、追われるようにして山へ上がり、開拓し、独特の風習と家並みを造り出したものが、憩いの村に変身したのだ。ベルギーにある小さな村、石造りのデルビューイ村とは全く違うが、今はいろいろな人が訪ねてくるのは何か同じ臭いがあるのだろう。懐かしいとか、親しみやすいとか・・・・・・。
石窯で焼いたパン、手作りハンバーグは完食できないほどボリュームたっぷり。

 昼食後のバスの揺れに、眠けが急速に襲ってきた。うつらうつらしながら、百七十キロ先のパムッカレへ。写真やパンフレットと実物はどう違うか楽しみである。東へ進むに従って、空気も地面も明らかに乾燥しているのが伝わってくる。山はオリーブの木がまるで禿げ山に植林したように点々とはえている。畑はどんどん緑色が薄くなって、薄茶色に変わっていく。麦しか収穫できない乾燥地帯に入った。道路に沿っている線路を電車が走っているのを、ついぞお目にかからない。廃線なのかとさえ思えてくる。
 遠くに見える丘はどんどん禿げ山になっていく。やがて丘の一部が遠目にも白く見えてきた。石灰が体積して遠くからでも白く見えるのだ。
 見晴らしのきく丘の上に出ると、モダンな建物が現れ、観光バスがギッシリ停まっている。その広い視野からは石灰棚だけでなく、多くの遺跡が目に飛び込んできた。温泉地として有名であったのを初めて知った。丘が切れ込んだあたりから石灰分を多く含む温泉が流れ出し、その石灰が棚田のような独特の景観を作り出した。
 現在は、流れ出す温泉は観光客に合わせてコントロールされている。運が悪いと、全く流れていないこともあるらしい。素足で棚田を歩くことが許されているのは嬉しい限りだ。TVで見ていたときは、棚田を歩くのが憧れであった。堆積して形成された小さな無数の縞というか皺はざらざらして少し足の裏が痛いし、ぬるとした感触で滑りやすい。ところどころの棚が浅いプールにもなっている。
 子供たちは、元気に小さなプールに浸かったりしてはしゃぎ回っている。その開放的な水着姿に誰も気にもしていない。ここが、先入観として考えていたイスラム世界とは、思えない戸惑いがあった。
『生まれつきのイスラム教徒であり、宗教的な行事は強制されていない、必ずしもお祈りに行かなくても良い、政治と宗教が切り離されている……』
 それがトルコなのだと初めて実感できた気がしている。子どもたちの開放的な明るさも。もちろん食料百パーセント近い自給率などの経済的な豊かさに裏打ちされているからだろう。

遺跡が沈んでいる温泉プール 残りの遺跡プールを写真に納めたいと来る前から思っていた。迫ってきた時間を気にしながら急いだ。公園の木立に囲まれ、澄んだ池といった趣だ。周りには喫茶テーブルが置かれていて、思い思いにお茶を飲みながら池を眺めている。プールサイドを花や緑の葉っぱが縁取りになっている。木漏れ日の具合で、水面はキラキラと輝いていて、緑色、土色、青色などがミックスした微妙なグラデーションにも。それが、水に沈んだ大理石の遺跡の形や大きさがさらに複雑な模様を描いているように見える。その中を泳いでいる人の動きで立つ波が、さらに、微妙な変化を与えている。想像していたより少し規模が小さいが、透明感のある美しさは想像以上であった。それを絵で表現できないかと考えをめぐらしていた。
 今夜の宿には、室外温泉プールがある。宿の真ん中には、黄土色の大きなお供えを積み重ねたようになっている。天辺から吹き上げた温水は下の棚状のプールへ順に流れ込んでいる。棚の表面は、パムッカレと同じ波形の模様が浮き出ていて、小さな棚田は水着で入る泥温泉プールになっている。効能は肌がつるつるになるのがうたい文句。残念ながら水着の用意が無かったので諦めた。パムッカレは大昔から温泉保養地であったのだ。

  旅人宿と踊るイスラム教

 今日は、カッパドキアまで六百七十キロと長いバス移動である。途中で、踊るイスラム教メブラーナ派で有名なコンヤに立ち寄ってから、ひたすら西に向かって走る。カッパドキアでの二泊は大きな楽しみであり、最大の目玉だ。
 コンヤまでのバスからの景色は、麦畑が延々と続いていた。走るほどに辺りの景色は緑が増えてきた。さらにところどころに白い花が混ざってきた。芥子の花である。道路沿い、家の近くにも白い花を見かける。芥子は人里離れた辺鄙な土地で密かに栽培されるものとばかり思っていた。それが、堂々と人の目につく場所で栽培されているのには驚きであった。もちろん、正規の許可を得ていて、重要な医薬品の原材料として栽培されている。決して、不正に闇の世界に流れることはないと説明されたが、現代人の心では理解を超えている。イスラム教世界だから関係ないとは思えない。どうしても、何かがあるのではと思うのは、下種の勘ぐりなのだろうか。いや、やはりトルコのもつ豊かさだと思って、深く考えないことにした。

 次のドライブインでは、芥子の実入りアイスクリームが有名ですと聞いては、見過ごしできない。アンパンについている小さなつぶつぶと同じような実で、特別な味はしない。少しがっかりだった。

 次には、チェリーの果樹園が何キロも続く。アメリカンチェリーと同じような赤紫の実をたわわに付けている。ドライブインで試食したが甘味が少しすくない。スイスで食べたチェリーは、アメリカからの輸入かと思っていたが、距離的にはもしかしてトルコからだったのかもしれないなどと、勝手に想像していた。
 バスの中での説明で、興味あることを書き留めておいた。
 ・生まれたときから、すべのトルコ人はイスラム教徒である。捨てることもできる。
 ・七十〜八十パーセントの人は、一日五回の決まったお祈りはしない。
 ・他国を征服してもイスラム教を強制しなかった。
 ・服装は自由である。
 ・ラマダンの生活は守る。
 ・葬式はイスラム教に従う。
 ・信・愛のシンボルとして羊を捧げる。十パーセントは家族で食べるが、残りは他人に配る。
 ある面では、一昔前日本の仏教と似たところがあるが、イスラム教の基本の習慣や伝統が色濃く残っているのが分かる。しかし、かつて仏教色が強かった日本が薄れていったと同じ過程をたどるのだろうか。トルコは他のイスラム国(政教分離されていない)からどう思われているのか。この旅行が終わるまでにはどうにか確かめてみたいと強い願に変わっていたが、それほど明確な答えは後でも得られなかった。

 古都のコンヤは、宗教色が色濃く残っているが、技術系大学があり多くの若者が学んでいる学園都市でもある。電車待ちしている姿を見かけたときは、レールは生きているのだとホッとした。
 昼食は、旧市街にある石積み造りの隊商宿(キャラバンサライ)。レストランとして改造したもので天井が高く当時の面影を残している。名物は牛肉、ピーマン、マッシュルームの煮込み。おかわり自由といわれてもハイそうですかとは詰め込めない。高いアーチ状の天井と壁かけランプの光がゆらめくような雰囲気を醸し出しているが、雰囲気だけでは食えないので、早々に退散した。
 特に有名なのは、旋回舞踊のメブラーナ教の本山があることだ。羊の毛を固めたとんがり帽子、白い衣装で自転しながら円を描いて広い床を集団で回っていく。白いスカートは円錐形を保ち続ける。よく目が回らないものだと感心させられる。忘我の境地になり、神と一体になれるという独特の宗派だ。
 その博物館は、高僧の棺が安置されている霊廟でもある。その中を西洋人も、東洋人も、異教徒も分け隔てなくごく自然に見学していた。その大らかさには、あらためて親近感さえ与えてくれる。
 コンヤを出ると、また乾燥地帯を走り出す。麦畑が延々と続く。途中で、空が暗くなってきた。パラパラと小雨も落ちてきた。乾いた大地に恵みの雨になるのだろう。一組の羊飼いを見かけた以外は、麦畑と電柱ぐらいだった。
 次のドライブインの名物は溶けにくいアイスクリーム。雨もかなりの降りになってきた。またも、ダッシュ。食べなくてはと。後で聞いたが、どうも特殊なパウダーを混ぜてあるらしい。それがどんな粉かまでは分からなかったのは少し残念。

 カッパドキアまでは残すとこあと少し。トルコ旅行は長距離バスあばた面の猫移動とは聞いていたが、やれやれだ。
 奇岩が見えてきた。普通の住宅と溶け込んだ風景だ。大きな岩は、見方によればあばた面の猫にさえ見えるものもある。
 ホテルは、崖を切り崩して建てた鉄筋コンクリート造り。コンクリートの壁は岩の雰囲気を残している。真正面は鳩の谷、遠景には奇妙な形の岩や、無数に穴の開いた岩が見える。道路からは平屋に見えるが、下に向かって四階建てになっている。部屋からは直接庭に出られるが嬉しい。鳩の巣のような小さな穴が至る所の岩壁にあけられている。明日は楽しみだ。

  奇岩の連続

 早朝、バルーンからカッパドキア全体の谷を俯瞰するオプションが用意されている。申込みには事故になっても責任は問いませんとの書類にサインするのが第一条件。家内も、それほど興味がなさそうなので即諦めた。後で聞いたが、着陸時に岩に追突して、少し危なかったらしい。
 ホテルの庭からは眺めていると、早朝の谷をゆっくりと上がってくるバルーンの数がどんどん増えていく。奇岩を空から眺めるのも一興であるが、高い所が苦手なのであまり固執する気にはなれない。庭から、はがき絵を描いてみた。鳩の巣を中心に、乾いた感触を表現するのが難しい。谷を通って、奇岩が裾野に広がり、広い平地に続いている。奇岩に四角や丸のいろいろな穴が穿たれている。中には明らかに崩れかかっているものもある。住居だった穴では、想像を超えた生活があったのだろうか
と思うだけで興味が尽きない。住まなくなってからは倉庫代わりに使われていたらしい。

 カッパドキアでの最初の見学が地下都市のカイマクル。地下都市と聞くと、蟻の巣を連想してしまう。各スペースが地下道でつながっていて、全体で有機的な構造になっているのだろう。
 入口を入ると、二十人ぐらいで一杯になってしまう狭くて天井も低い空間になっている。そこからは、一人がしゃがんで通れるほどの急な通路が張りめぐらされている。太めで大きな人は到底通れそうもない。そこを通り過ぎると、少し広い空間に出る。玄関ホールといったところだ。その入口は、敵の侵入を防ぐ仕掛けまで施されている。大きな円盤状の岩石が入口を塞ぐようになっている。
 全体は六階建ての構造になっていて、集会場、寝室、穀物倉庫に使っていた穴や、造った葡萄酒を蓄えた場所もある。壁が黒ずんでいる空間は、キッチンである。できる限り煮炊きを少なくする工夫もされていて、乾燥した穀物、肉、果実などが主な食料だったらしい。煙は、地上に逃がす換気穴がある。敵に見つかりやすい煙の出し方までは、どうなっているのか分からなかった。きっと巧妙な仕掛けがあったのだろう。そんな地下都市が結構あった。都市間の交通も、馬で移動できる地下道で結ばれていたものもあった。防衛と快適な温度管理に優れた都市であったと思う。ただ、この閉塞感はきついだろうが、それを耐えてもメリットがあったのだろう。
ホテルから見たカッパドキア 地上に出ると、そこはテント商店街。日本円で買える日本語版の案内本が安いので、早速買い込んだ。説明を聞いただけでは覚えられないので後で助かる。
 次に連れて行かれたのが、絨毯工房である。トルコ絨毯の良さなどは、予めバスの中で吹き込まれていた。日本の湿度の高い気候には高価な絨毯は向かないと思っていたので、最初から興味がなかった。これも日程表にない二度目のショッピング案内。ショッピングと考えると興ざめでだが、トルコ絨毯が造られる工程、精巧な織りや複雑さを実地に見せてくれ、説明してくれると思うとありがたい。説明者の流暢なジョークをまじえた日本語に引き込まれていく。説明が終わるとお茶が出て、今度は一斉に売り込みが始まる。ドアーを締め切り、個人アタックが始まる。欲しそうな素振りでもすると大変だ。皮ジャケットの店と同じ商売パターン。
ラクダ岩 一通りのセールス攻勢をかわしてから会場を出てしまった。最初から買う気はないので話を聞いている方が苦痛であり、相手にも悪いと思っていた。小さな玄関マットを数人の人が買ったらしい。観光バスが到着するたびに同じ光景が繰り返されているのだから、気にかけることもないのだが。
 午後からは、バスでは行けないようなカッパドキアの奥まで連れていってもらえる約三時間の四WDに乗ってのサファリ。先頭のベンツの方が砂埃を被らなくてすむだろうと、さっさと乗り込んでしまった。何しろ、そのベンツには踏み台がないので、私以外は乗り降りに苦労していたが、先頭に乗ったご苦労賃だ。
 白い八台の四WDは、荒涼とした奇岩と沙漠のような砂には映える。土地は石灰のように白い土塊だらけで乾いている。何か植えられている。こんな土で、植物が育つのだろうかと首を傾げてしまうが、カッパドキアのワインで有名な土地でもある。ここでも小学生の明るい笑顔が待っていた。
 年々、奇岩は風雨と強い太陽にさらされて、崩落して姿を少しずつ変えている。まさに、落下しそうな岩の帽子。すでにかぶり物が無くなった岩。それは、明日のカッパドキアの姿を描いて見せている。千年単位で、現在の奇岩地帯がフラットになり、新たに丘が削られて奇岩になっていることだろうと想像すると面白い。その繰り返しで今の姿があるのだ。偶然ではあったが、柔らかい革製で、キノコ岩の刺繍のある野球帽を安く手に入れられたのは、帽子好きには特に嬉しかった。
 高層アパートのように多数の穴が開いた大きな岩、谷間の崖上から見える乱立する列柱群、カエルのような顔した岩が乗った柱、らくだの形をした岩、崩れかかった住居跡、松茸のようなキノコ岩。とんがり帽子の喫茶店
 最後は、現在でも住んでいる三角椎の岩をくりぬいて造った家でのチャイタイム。木橋を登るとトルコ絨毯が岩盤の床に引き詰められていて、キッチン、居間、寝室に分かれている。暖かいチャイを振る舞われ、ホッとする印象深い時間であった。外の温度変化に強い丈夫な家だが、電気やガスはどうしているのかまでは分からなかった。現在は、世界遺産になっているので、一切増改築はできない。どこまでがんばれるのだろうか。それとも住居は別にあって、変わった喫茶店として商いをしているのかもしれない。
 ホテルの近くの鳩の谷では鳩がねぐらにかえる前の食事タイムとばかり、しきりに餌をねだって寄ってくる。あっという間の変化に富んだ三時間。さすがに、連日の疲れがじわりとたまっている。ほこりっぽい凸凹道に揺られた感触が体全体に何となく残っている。想像できないような姿や形、百面相のような表情の岩たちに見つめられ、無言で何かを語りかけているような気がしていた。

  イスタンブールでのディナークルーズ

 今日は、四日間かけてバス移動してきた距離を、たったの一時間半でイスタンブールへあっという間に飛んでしまう。
 最初に連れて行かれたのは、トルコ石を主体にした大きな工房であった。二日続けてのショッピングには時間を損した感じだ。トルコ石とはどういうものかを知るだけで、目の保養になると思って諦めた。サッと見てからは外に出てしまった。女性軍は、真剣に見て回っている。そこが相手の付け目である。
 しっかり者の家内は、絶対に買うことはないだろうと確信していた。空き地には、白や、赤や、黄や、紫などの野の花が咲いている。咄嗟に思った。花束で我慢してもらおうと。小さな花束の根元を水に浸したティッシュでくるみ、簡単にゆわえてできあがり。数時間しか持たないだろうが。やはり、新婚カップルが外に出ていたので奥さんに花束でも作ってあげたらと言ってみたが、まったく行動を起こす気配はなかった。私のセンスと違うのだと一人で合点していた。
野花の花束 売り場に戻って、これで我慢してくれという浅い意味で、みんなの前で渡してサッサと外に出た。別に恥ずかしいとも思わない。
「気が利いていて、一番嬉しかった……」
と言われてから少しきざっぽく、こそばゆかったが評判は良かったようだ。

 ギョレメ野外博物館の見学がカッパドキアでの最後である。実際に、岩をくり抜いた小さなキリスト教修道院や教会があり、宗教生活の場になっていた。近くのものを含めると、資料では七つの教会がある。カッパドキア一帯では二百以上はあったらしい。いずれも、極彩色のフレスコ画(宗教画)が壁や天井に描かれている。中には完全な状態に近い姿や顔のキリスト像が残っている洞窟や、作為的に削り落とされたものもある。見学者の中に、明らかに西洋人の姿も多く見かける。イスラム寺院でも同じだった。
 どうして、キリスト教会がこの地に存在するのかは、歴史的に西からの圧迫に逃れて隠れたのだといわれると理解できる。そして、この奇岩地帯がトルコに存在したのが歴史の面白さだと思う。壁画がこれだけ残ったのも。キリスト教とイスラム教の長い歴史の交流がもたらした融和の産物なのだろうか。
 野外で溶けないアイスクリームを棒の先でこねながら売っている。下痢するといけないので食べないようにと注意されていたので、残念ながら初めから諦めていた。
 最後の昼食に寄る地下レストランが、カッパドキアをデザインしたボトルを手に入れるラストチャンス。ジュースの入った中ビンとワインの小ビンを買った。来る前からどうしても欲しかった念願の品物だ。国内線でも、重量制限が厳しいといわれていたので、トランクと手荷物のやり繰りには頭を悩まされたが、実際はかなりおお目に見てくれていたので助かった。お土産を一杯買って欲しいという国の戦略があるのだろう。


  飛んでイスタンブール

 ボスポラス海峡ディナークルーズ船出港ぎりぎりの午後六時、船着き場に到着。途中、ボスポラス海峡が奥に長く切れ込んだ入り江のようになった金角湾を渡る橋の上で、沢山の釣り人が海面から十数メートルの高さから糸を垂れている。今晩のおかずでも釣っているのだろうかなどとぼんやり考えていた。
 ディナークルーズ船は、JTB専用チャーター船で、百人ぐらいは入れるキャビンには我々三十人だけであった。デッキから、傾きかけた夕日をバックに記念撮影。突然、今はやりのメロディーが近づいてくる。何だろうと見ていると、スカーフを被った、明らかに女子高校生ぐらいの集団が、大きな手振りや派手な身振りで、デッキで踊っている。こちらから手を振ると、大きなジェスチャーが帰ってくる。開けっぴろげな雰囲気をあたりに振りまいている様子にこちらまで楽しくなる。足早に遠ざかってまた静寂が戻ってきた。涼しい風に吹かれていると疲れが一緒に飛んでいく。
夕焼けのボスポラス海峡 十五回以上も食事を一緒にしていると、一回以上同じテーブルに着いたことのある顔馴染みだ。仲良し中年女性三人、我々と同年配の夫婦、我々三人の八人。テーブルに男性二人。あまり深入りしたことを話題にした覚えはないが、話しが盛り上がっていた。笑い声も絶えない。夫婦の長続きする秘訣の質問では、咄嗟に答えた回答は今でも覚えているし、正解であると思っている。
「すぐ忘れることですよ……」と答えたのを。
頭にきても、すぐ忘れるのは日頃から実行しているので、即答できたのだろう。その時は、大きな問題だったが、少したって忘れているので本来大きな問題では無かったのだ。これまで到達するには長い悟りの時間が必要だった。こだわってしまうと凝りが残り気まずくなるのは、実感的に会得した経験であり、第二の習い性だ。これに失敗すると、高齢を乗り切れないのも分かっている。
 これから高齢化を迎える女性三人組は、どう受け取ったか? たわいごとと受け取ったか、それとも頷けたか? 
 二時間のクルージングも元の係留場所まで戻って終わり。話題は盛りだくさんだったが、覚えていないのは、たわいない健全な一時であったのだ。これも、見知らぬ同士が会って、また見知らぬ同士にもどる一時だった。
 着いたのは高級ホテルのコンラッド、すでに午後十時を過ぎていた。ツアー最後の宿は、どんなツアーでもデラックス感を味わってもらうように配慮されている。明日の朝は、少しゆっくりしていられるので助かる。

  旧市街見学

 朝のボスポラス海峡ホテルの窓からは、快晴の朝のボスポラス海峡が目に飛び込んでくる。海面をしきりに大小取り混ぜた船が動き回っている。
 ホテルによっては、朝飯はダッシュしなくてはならい。品切れが多くなって食べ損なうことがあるからだ。今回は、一度も無かったのは気分的に助かる。豊かな品揃え、特に蜂蜜の巣は美味であった。目でも堪能できると人間がつがつしなくてすむ。
 今日の一日と明日の午前中、ヨーロッパサイドの旧市街を中心にした歴史的建造物の観光である。バスから見える市街を囲む外壁は如何にも歴史的に古そうな雰囲気がある。朝からガラタ橋では、釣り人を多く見かける。どうして、朝からこれほど暇人が多いのかとつい考えてしまう。バスは有名なオリエント急行の終着駅の前を通過した。

 最初の歴史建造物は、ブルー・モスク。内部に使われているブルーのタイルがステンドグラスの光を受けて美しいところから、通称ブルー・モスクと言われている。
 長蛇の列、入口の係は猫ちゃん。階段近くの狭い場所で睨みをきかせている。しきりに観光客は写真を撮っているが、まったく気にもしていない。
 靴を脱いで入った大ホールは、赤い絨毯が引き詰めてある。小学校の体育館の十倍近い広さはあるだろうか。そして高い天井は、神様の宇宙を演出している。前の方では、祈りをあげている人を見かけたが、見学者の喧噪と入り乱れる光の渦にもまったく気にならないらしい。金曜日にモスクで礼拝すれば、毎日お祈りしたと同じ効用があるらしい。どこかでも聞いた話である。

 モスクを出た道路の脇に目立たない建物がある。地下宮殿への入口。宮殿と言っているが、寺院や王宮用の地下貯水池で小魚も泳いでいる。内部は三百三十六本の彫刻を施された柱で支えられている。ライトアップされた様子は、列柱の配列された簡素な宮殿とも言える。
 特に有名な柱は、異教徒の神殿から調達したメドーサの顔を、逆さや横向きにして柱の土台にしているものだ。人だかりがして、しきりにフラッシュがたかれていた。フラッシュの中に、小魚以外にコインが浮き出してくる。何にでもお願いしてしまうのは、日本人だけの習性ではないらしい。メドーサに何をお願いするのか理解できない。

 午前中最後の観光はトプカプ宮殿で、ボスポラス海峡、金角湾、町全体見渡せる絶景の丘の上にある。歴代の君主とその家族が暮らしていた。贅を尽くした宝物、装飾、そのスケールに圧倒される。一度に四〜五千人の賄いができる厨房まで用意されていたと聞くとなおさらである。
 また、豪華な大広間の宴会場、華美なハーレム、大粒で澄みきったグリーンのエメラルド、巨大なダイヤモンド、数々の金食器、黄金の兜などに、君主の権力の大きさがわかる。豪華さに目がくらんでしまって、唖然としているだけだ。
 順路に従って歩いているうちに、これでもかこれでもかと見せられている内に、あまり感激しなくなってしまう。ただ、何かに肯いているだけだ。
 見晴台から、晴れ渡ったボスポラス海峡と金角湾を渡ってくる風に熱くなった体を冷やしていた。

 宮殿の門を出て、坂を下りながら昼食会場へ。古い城壁と老朽化した木造の家の前をぞろぞろ歩いている。すでに、午後一時を過ぎているので、野外テーブルがビッシリ並んだレストラン街は、まったく空席ばかり。カンカン照りの野外テーブルは勘弁して欲しいと思っていたので、室内なので助かった。海峡の絵が一枚だけかかっていたので、参考になればと構図的な目で眺めていた。
 お宝に少し食傷気味だった。出されたものは魚介類の料理であったがどう贔屓目に見ても、日本の居酒屋のものより落ちるが、遅い昼食であったので何とか食べられた。
 店頭では溶けないアイスクリーム実演販売のユーモアたっぷりの演技に人集りがしている。カッパドキアでの野外販売を諦めた反動からか、名物を食べてみたいと意気込んでいる様子だ。食べればそれで満足なのだ。

 これからのメインはなんと言っても、グランドバザールでのショッピング。エネルギーを蓄えておかなくてはならない。地図で見ると、今日の見学地域は比較的狭い場所を移動しているだけだが、人混みのエネルギーでくたびれる。
 パンフレットなどで見ていると、四千もの店が犇めいている。ゴチャゴチャ感が好きなので、楽しみだ。家から遠くない卸売りセンターに行くことがあるが、張り切って見て回る変な習性がある。同じものでも、少しでも安いのを発見すると嬉しくなってしまう。
 屋根付きの商店街は、当時でも先端的であったのだろう。メイン道路を中心に、碁盤の目のように区画されて通路に店が配置されていて迷路のようだ。観光客はお得意さんなのだ。装飾品、照明ランプ、皮や布製品、アクセサリーなどの店が連なっていて、品物が溢れんばかりに展示されている。バザールの中は、適当な温度調整がされているので快適である。競合店が多いので、おなじようなものでもどちらが本当にお買い得か分からない。『初めから欲しそうな顔をしてはいけない、言い値で買わない、一回は値切ってみる』とアドバイスを受けていた。しかし、一回でも値切れば得した気になってつい買ってしまう。安物のお土産ぐらいでは、実害がないので気楽なものだ。しかし、複雑な迷路を一人で歩くには少し緊張する。
 突然、気がついたのだが、女性店員がまったくいないのは異様である。髭面らの男たちが、カフェなどに屯しているだけで引けてしまう。さかのぼって考えると、ドラブインでも、食堂でも、女性店員、女性給仕はまったくと言っていいほど見かけなかった。あらためて、トルコがイスラム教世界であることを思い出した。
 ガラタ橋近く、かつての見張り塔に登って市内の展望を楽しんでから一旦ホテルに帰る。塔の見学を終わって、外で腰かけて待っている姿にはかなりの疲労がたまっているようだ。今日も、盛りだくさんだった。

 夕食をかねたクラブでのベリーダンスを見ながらの食事が待っている。午後八時集合で、午後十一時過ぎのお帰り。それでも今晩が最後の夜であるので、用意された最高のプログラムなのだろう。ベリーダンスを近くで見ることができるのはありがたいが、何となくもう食傷ぎみな体には、それ程のご馳走ではない。
 折角持ってきたのだからとスーツに着替えて出かけた。ラフな格好ばかりしていたので、何となく気分が変わる。クラブの中は薄暗く、すでにひと息で溢れている。座った席が、ステージに背を向けていたので、しまったと思ったが後の祭り。できる限り、詰め込んだという感じである。
 夕食がはじまり、しばらくすると小刻みに振動する独特のリズムが流れ出した。西洋人のような感じのダンサーはお腹を上下、左右に振るわせながら、体全体で動き回る。ベリーダンス自身は、それほど難しいダンスではなさそうだが、お腹や肩を休み無く動かすのは大変だろうなと変な感心をしていた。お腹が、ぐちゃぐちゃにならないだろうかと余計な心配もしたが、絶対に便秘にはならないだろうなとも思っていた。何時までも、腹ふりだけを見せられたら誰だって飽きてしまうなと思っていると、次に現れたのが男性グループのダンス。さすがにお腹は振っていないが、相変わらず同じようなリズムである。
 食事の方はあまり進まない。ほとんどの人が残している。時間でどんどん片付けられていく。
 ベリーダンスだけでは間が持てないと分かっていたのか、ベテラン歌手が登場。確かに、すばらしい声と間合い、話術で辺りは生き返った。世によく知られた歌を、その国の言葉で歌っていく。自国の歌が流れると自然に唱和が興り、座が盛り上がる。『上を向いて歩こう』では、自然に声が出ていた。
 何時しか、二時間が経っていた。朝から盛りだくさんな見学に、疲れた体は帰りたいと言い出していたので、終わった時はホッとしていた。まあ、一度見ればいいよと言ったところだ。
 
  最終日の贈り物

 コンラッドホテルの最後の朝食はすばらしい。ゆっくりと選んで、ゆっくりと味わった。空港へ行く前の午前中、まだ最後の見学場所が残っている。イスタンブールを象徴するような場所、アヤソフィアである。昨日のブルー・モスクとトプカプ宮殿に挟まれた場所にある。
 トルコの歴史、東西文化の癒合が生んだ大聖堂である。初めは、東ローマ帝国の総本山として創建された。二度目の火災を経て現在の姿になった。キリスト、聖母子などのモザイク画がはめ込まれた。しかし、オスマントルコの支配になり、モザイク画は漆喰で塗り込まれて、イスラム寺院として改築されてしまった。そして、トルコ革命後に漆喰を剥がし修復され、博物館として一般公開され今日にいたっている。東西文化を共存させたアタチュルクの凄さを感じさせる。
 トルコは東西文化を融合できることを証明していると思うが、現実は厳しいだろう。本当に東西が融合されるには、これから何世紀も先のことだろうなと考えてしまう。

 トルコ風味(我々が親しんでいる味ではないという意味)の中華料理を最後に、すべての行程は終了した。盛りだくさんな旅行であった。
 「トルコは他のイスラム諸国に囲まれていてどう思われているのか? 」
とインテリのガイドさんに最後の質問してみた。
 トルコ人の想いは短い旅行ではあったが、何となく感じていた。第一次世界大戦に敗れて長い革命を通して培った自信が、他国から侮られないという自負になっているのだろう。
 他国のイスラム世界というよりは、個人からは
「うらやましがられている……」
とのあっさりした答えだった。それ以上のことは聞き出せなかったのは残念ではあった。トルコ並みの豊かさがないと、政教分離も難しいだろう。まだまだ、トルコと同じレベルの自由を得るのも大変なのだ。

厄除けの目玉 残りのトルコリラをすべて、お土産に替えて帰国の準備は終わった。荷物検査もぎりぎりでパスしたし、どうしても買って帰りたいと思っていたカッパドキアのボトルも手に入れた。
 家内は、魔よけとして有名なトルコ名物の目玉(ナザーレ・ボンジュー)を、お土産用も含めていろいろ取り揃えていた。これだけあれば、災厄もよってこないだろうと軽口を叩いていた。それが悪かったのかもしれない。

 突然、悪夢が現実になってしまった。搭乗一時間前、家内は六段の階段を踏み外してしまった。ドスンとした鈍い音、家内は床に座り込んでいた。立つことができない。
 どうしても帰りたいという堅い意志。そこから苦行が始まった。車椅子で搭乗して、トイレに近い最後尾の三列の座席をもらい、氷で冷やし、痛み止めを飲み、シップ薬を貼り、十三時間のフライトにジッと耐えていた。
 入国も車椅子でVIP並の対応をしてもらい、首都圏は車椅子支援のネットワークに助けられて八王子まで帰り、タクシーで医院へ直行。即、右足踵の骨折と宣告されて、ギブスをはめられてしまった。それから二ヶ月、家庭介護が始まった。家事全般と自分では食べられない激やせした犬の世話をこなしていた。これから待ったなしの介護のいろいろなノウハウを習得できたのと、介護の大変さを少し体験させてもらったのだと思う。その上、普段使わない物たちが大いに役立ってくれた。
 本音では、早く少しでも開放されたいと思っていたのも事実だ。

  追加の贈りもの

 旅行前に検査を受け、帰ってから十二指腸に悪性リンパ腫があると宣告され、長期の経過観察の身になっていた。ひらたく言えば、悪くなるのを待っているとも言える。
 ところが、そこで終わりではなかった。家内の状態も良くなり、奥多摩渓谷犬の体力も回復して、少し時間に余裕も出てきたので、奥多摩での写生に参加した。ところが、場所探しで降りた河原で滑って転倒してしまった。左太ももの内出血とこめかみの出血。骨折を免れたのは本当にラッキーであったが、ある程度びっこを引きながらも歩けるまでは、ひたすらシップを貼って寝転がっていた。
 これを書いている最中でも、強打した箇所だけは痛みが抜けなかった。まだまだ、相当長くかかるかもしれないと覚悟を決めていたが、左足全体に広がっていたみにくい青あざは、九月に入ると急に消えてきた。
 家内の骨折は踵だけですんだ。腰だったらと思うとイスタンブールで搭乗できなかっただろう。私の方も頭を直接打っていたら今頃はどうなっていただろうか。リンパ腫からは解放されていたかもしれない。これは、目玉の御利益だと思うと、目玉様さまである。自分の都合の良い方に考えて慰めている。

 弱り目に祟り目もここらで止まってくれないかと願わずにはいられない。それでも、いつかは、同じようなことが起こって、だんだん孤独になって行くのだろう。人生の巡り合わせを感じさせられた今回のトルコ旅行であった。
 今は、出来る限り身辺整理をして好きなことにエネルギーを集中させて、来る何かに備える準備を始めている。
 それだからこそ、海外の写生旅行には是非参加したいと思っている。

              完

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